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①章の2 まごころ絆バス運行までの時代背景と筆者の思い

 提案主婦の京子は令和元年(2019)9月現在58歳、飲食店パートをしていた。地域通貨“未杜‘の会員でもあった京子は、このボランティアのスタッフとしての支援者に何か面白い報酬を与えたいと思った。
 それが、期間限定市内バス乗り放題パスである。絆バス支援で、ボランティアポイントをためた人に、まずは1ヶ月、3ヶ月、半年、1年の期間パスを与える企画だ。費用を負担してもらうのはバス会社だけではなく、支援の利用者さん、利用者さんのご家族からの寄付、利用者さんに買い物していただくお店、丹波市からの補助金、各バス停付近のお店や施設からの支援金も期待した。
特に若者に乗り放題パスを利用してもらえたら、丹波の活性化に繋がるのではないかと思うからだった。
 令和元年秋、ある平日について現状の市内路線バスは利用者が少ない。座席20ほど、立つ席まで入れると30人は乗車できそうなバスに一ルート一回運行に3人程度の乗客と言う事もあるようだ。京子の母の利用状況や京子自身の利用したタイミングの経験値であり、現状調査は少なすぎるが。この点はご容赦いただき運行に携わる方にいずれ取材時間をいただけないかと目論む。京子の本業はうどんやパートと公文学習塾の採点パート、主婦、偶には孫守り、高齢の両親介助などしている。それなりに時間を作って地域の課題と向き合おうと努力するけど調査に時間をさいていると何もできずに終わってしまいそうだからご容赦願いたい。
現状の路線バスは乗車客がこう少なくては、赤字だろうな。そこに無料で利用させる期間パス発行報酬企画はどうかなと、バス会社を嘗めるなと言われそうだが、視点を変えれば、費用以上の効果があるかもしれない。もともと利用する機会のなかったであろう若者に乗車のきっかけをつくる。若者ならではの発見があるのではと思うからだ。
 普段はマイカー利用で目的地直行の京子だが、ある日父の医療支援の為、丹波医療センターから大塚病院まで路線バスを利用した。その際の運行ルートが面白く道草気分になるような新鮮な発見があった。また、その日が秋だった事もあり、ゆっくり外の紅葉を眺めながら30分余り、路線バスの旅気分を味わった。現状の路線バスルートからでも観光気分ルートを市内の若者は選んでSNSに提案発信してくれるかも知れない。丹波市は小京都のようなのに混雑する事もなくゆったりほっこりできる。急なマニアが激増する危険もはらんではいるので対策もあらかじめ考えておかねばならないが。また停留所の見直しを考える。停留所の見直しに伴う広告権の提案とかもできそうだ。車の運転免許のない若者や車を所有しない、若者、高齢者の行きたい公園や飲食店などのアンケートを採り、高順位の場所近くに停留所を新設する。そして停留所を新設する上で、近くの店に宣伝支援金をもらえないかという営業だってできそうだ。
 その外に最も主張したいきっかけづくりへの思いがある。それは高齢の絆バス利用者と若者を繋ぐ事で、丹波に埋もれてしまいそうな技や知恵を若者が知る。知った技や知恵を、やわらかい頭で練り直す。そして未来にほしいものを創造する。丹波を工夫次第で住みやすく働きやすい地域に変えてくれる若者を育てたいという思いだ。
 その思いを現実化できそうな夢ビジョンを描こうと今書いている。
 約20年昔、兵庫県のプランナー養成講座で学ばせてもらった事を活かしたい。あのプランナー養成講座では、限界集落になりかけた山村を救う葉っぱ産業の話を知った。料理の彩りとして添えられている葉っぱにヒントを得た農協営農センターの職員さんの奮闘と、高齢者さんとの連携の話だ。
 営農センターの職員さんは料理の褄にひらめき、葉っぱの需要を探り供給ルートを作った。需要がある葉っぱの形や大きさ色等、きちんと把握した上で拾い集めて収入を得る事ができるようになった高齢者たちによる村の活性化に繋がった話だった。
 他には、古い京都の小学校を再現した博物館も見学した。京都は幾度も天下統一を志す侍たちの合戦の場となった街である。それで、せっかく庶民が築き上げた地域の秩序が何度も合戦によって乱される。しかし庶民は翻弄されまいと、商人たちの知恵で、地域の文化をつくり守ってきた背景から、商店街毎に校区があり、校区毎に特色のある教育方法で職人を育ててきた。それぞれの技を守り活かした個性ある町作りの仕組みがわかるユニークな学校博物館だった。この仕組みを丹波でもヒントに考えたい。
 京子のところには令和元年十一月現在、三歳四ヶ月になる孫が隣に住んでいて頻繁に遊びにきてくれる。その孫には、どんな教育が大切になるのだろうか?と京子は常日頃考えていた。
 18歳の選挙権取得までに、地域社会の構成員として自ら考える人に育ててやりたい。
 もし読者のあなたがすでに成人でしたら、あなたは18歳当事、地域のことをどれほど知っていましたか?
 私は、18歳当時、自分の半径5メートルほどの事しか興味を示さなかったように思う。その後20歳で選挙権を得た時には、父の政治的意見をそのまま鵜呑みにして投票していただけだった。その頃、京都府福知山市に本部があるスーパーさとうに高校卒業後就職していて本部の財務部経理課経理係りをしていた。そこは県境府境ということもあり、京都府福知山市、舞鶴市、綾部市、峰山市、宮津市、兵庫県から私たちの旧氷上郡(現在丹波市)、旧多紀郡(現在丹波篠山市)、旧朝来郡(現在朝来市)等から人材が集まってきていた。
 ある日、朝来郡の先輩と氷上郡の先輩二人が祭りの踊りか何かについて休憩時間に話していて、お国自慢が盛り上がっていた。そんな時、偶然傍らにいた氷上郡に住んでいる私に、質問ネタが飛んできた。氷上郡氷上町出進の先輩からであった。「水分嶺有名や!な京子ちゃん?」と水分れについて確認された。ここに降る雨は、北へは日本海、南へは瀬戸内海へと分水して流れて行くのだ。今では、「日本の臍だ。」と胸を張れるのだが、その時の私ときたら、「すいぶん令?何か昔の法?ルール?わからへん。知らん。ごめん。」
高校時代毎日水分れ沿線の公道を自転車通学していたのにこのありさまであった。
 そんな私も還暦秒読みとなり、孫世代にはもうちょっと丹波を知ってから社会人になって欲しいと願う。初孫は男の子で、つむじが3つある。三ヵ月前までは、紙切りバサミを両手で開き、「ばあば、かみもっといて。チョキチョキするから。」と私の手を借りて紙切り遊びをしていた。ところが月が更新されると、片手ではさみを握ってスイスイ紙を切れるようになっていた。いずれ、計画的に物をつくろうとする日も近いだろう。まだ幼稚に無邪気にはしゃいでいる孫の顔を見つめながら私のできる事はないかと考える。孫とどんな視点でこの先関わればよいのだろう?
 人口減少で税収の伸びは大幅ダウンするだろうし、孫世代は今ある道路や公共施設、公共サービスの維持などにも苦労するだろう。一方、人工知能が情報処理やら、公共工事を担ってもくれそうだ。もはや、情報処理能力が問われる分野の士資格を生かした就職は困難になりそうだ。
 つまり、人工知能と人がうまく協働する社会をこれからは模索することになるのだろう。
 さて、買い物難民化する高齢者の存在が心配される丹波の端っこは、各町にある。概ね、田んぼや里山で自然と共生できる地域である。しかし、ずっと丹波に私は暮らしているけれど、丹波市の端っこ文化をよく知っているわけではない。生まれた春日町の旧大路村について若干知っているに過ぎない。それも最近の動きまでは分からないし、大して自信はない。 

  京子は、昭和35年丹波市春日町下三井庄に生まれた。旧大路村である。京子が柏原町新井地区に昭和50年代後半に嫁いだ後、生まれた下三井庄には市の運動公園ができ、そのすぐそばに市営プールやゴミステーションが築かれた。せっかく美しい里山や小川がある集落にゴミステーションは反対だの声も上がったのだが…
 50年昔は秋には、松茸や栗も採れた山の裾である。山の恵みに感謝し、山の神祭りもその辺で行われた。その祭りは男児だけの祭りであり、女に生まれた京子は、祭りの中身は知らない。同級生の親が牧場を経営しておられたのもこの辺だ。祭りの日には「山の神さん獅子追うてください♪」の歌声がこだました。懐かしい。

 京子が生まれた昭和の中頃には春日町役場の支所が大路小学校付近(下三井庄)にあり、日用品と食料品の店、豆腐屋、魚屋、酒屋、文房具と調味料の店、理髪店、薬や雑貨が買える衣料品店、ガソリンスタンド兼自転車屋、もそのエリアにあった。隣の鹿場にも同級生の親が炭屋(練炭、豆炭などの店)をされていた。
 その頃、路線バスは、もっと奥の上三井庄まで登っていた。上三井庄には保育園があって、そこはお寺でもあった。付近には日用品の店や食料品の店、田舎饅頭で有名なお菓子屋さんがあった。また、食料品店の奥さんが移動スーパー車を営業して回っていた。
 大路地区はやぐらコタツ製造など木工業が有名であった。上三井庄はまだまだ奥があって原(はら)と呼ばれるところに同級生も住んでいた。どこまで奥が深いのかとびっくりしたものだった。まだ林業が成り立っていたのだ。そこから三春峠という峠を上ると京都府につながる県境。京子の生まれた下三井庄にも市島町境があった。下三井庄の森(もり)というところ(深尾須磨子という詩人の生誕地)を上ると神池寺(じんちじ)に達し反対側に降りると市島町だ。京子が大路小学校へ通学していた時代に遠足コースにも度々なった。結構立派な天台宗の古刹である。珍しい山の植物にも出会える事で有名らしい。
 また、大路小学校がある下三井庄側から向こう谷と呼ぶ、となりの中山や松森集落あたりには農協の金融部と購買部、春日町森林組合、理髪店、料理屋、酒屋、ガソリンスタンドなど御茶屋があり、日用品の店、他には兵庫県立柏原病院系の診療所もあった。京子は、五歳当時この松森診療所で、なんとソケイヘルニアの手術まで受けた。バスは松森を経由し広瀬、柏野(旧大路第2小学校があった)を経由し野瀬まで今も上る。野瀬は、丹波篠山市に隣接しており、丹波市の西の玄関口であるとして、丹波篠山市につながる栗柄峠が最近(平成の終わり頃)改修された。中山には令和の今も同級生がお茶を製造販売しているし、その近くには製材所もある。
 京子の五歳当時は、農耕用に黒牛を飼い、矮鶏(チャボ)も飼っており産みたて卵を収獲。溝や小川には鮒やどじょうが泳ぎ、タニシやしじみ貝が獲れた。そのため、自給自足もできるほどであった。家畜がいる家はけして珍しくなかった。牛に干草を与えるために、押し切りと呼ばれる刃物で束ねた草を切るなど、子供のできるお手伝いも沢山あった。家の外壁には祖父が割った薪が積み上げてあり、炊飯や風呂の燃料にした。それを今は面倒だと思うのは、社会経済に翻弄されたからに過ぎないと振り返れる。本当の豊かさがここにはあった。自給自足ができるのが理想的には、本当に安心できる豊かさではないかと思う。こちらの谷側は上三井庄までバスが登った。しかし昭和が終わる頃には上三井庄までバスは登らず、下三井庄(みのしょう)で向きを変え、向こう谷の松森、広瀬、柏野を経由、野瀬に向かう。野瀬方面には昭和40年代前半まで旧大路第二小学校があった。しかし45年に大路第一小学校と統合されてしまったため、そのエリアから通う児童の足として路線バスが必須条件であり、おかげで令和の今も走っているのだろうか。
 上三井庄まで路線バスは令和元年現在登らないが、平成の時代に細見医院という病院が誕生しており、内科、耳鼻咽喉科、小児科もあり、結構利用者も多いそうなので、バスも上三井庄まで復活しないかなと願う。
 京子は、下三井庄の大路小学校の隣に大路中学校の校舎があったのも覚えている。大路地区の一年上級の人は大路中学校に入学し、新しくできた春日中学校(春日町野村にできた。)を卒業した。
 昭和48年、黒井にあった明徳中と大路中が合併して、造られた春日中学校まで、下三井庄の生家から片道約6キロメートル余りの通学には自転車が必須になった。幼い頃にはすぐ近所の大路中学校に通えると信じていたけれど…。通学距離が結構あるのに途中で自転車のタイヤがパンクしても、そのまま自転車を転がして徒歩で往復するなど苦労した。数年すると、通学途中の沿線、進修小エリアに自転車屋さんが開店して、ほっとしたのを覚えている。野瀬や上三井庄の奥からは14キロメートル以上あったかも知れない。当時、雪道の通学は大変だった。ほぼ自転車に乗れるような道は前半には無く、自転車を転がしながら歩く。台風の時も、朝7時の天気予報次第で休校か否かが決定される事が多かったけれど、その時刻まで家にいては遅刻してしまうエリアに住んでいるのである。
 近未来も人が減れば教育現場の統廃合は仕方ないかもしれない。その時、またも端っこ民が寄せられるのだろうか?さらに通学通勤に時間を奪われるのだろうか。結果、端っこに残っていた民芸(換金しにくい技など)に時間をかける暇がなくなり丹波らしい技が消えるのである。
 つまり民芸の後継者不足は統廃合による端っこ民の時間貧乏の結果なのである。
 下三井庄と同じ谷で隣の鹿場(かんば)は竹細工で有名だった。今も2軒は後継者があると同郷の先輩に教えてもらった。なんとか技を残し発展させたい。そう思ってインターネットで、丹波の竹細工を検索すると、昔は鹿場の青年団で竹細工をしていたので家に一人は技を持つ人が育っていたそうである。
 丹波市の真ん中の便利なところに住む人は一次産業を担わないで生活が可能だとしたら、その生活を支えてくれている端っこ民の生活が成り立つように支えるのは今後の緊急課題なのではないか。
 日本人の労働賃金が世界において安かった高度経済成長の時代には、換金しにくい一次産業を省みる余裕もなく、時代の波に飲まれて都会で生計を営む核家族が増えてしまった。しかし、一方で封建的な名残のせいか、長男は世継ぎ、田んぼや墓守として比較的元気な中高年が端っこに残っていたのだ。しかしこの残ってくれた世代の人達が高齢者となった。遂に田んぼを守る人がいなくなる。
 しかし半世紀前の経済成長期に様々な幹線道路ができるなど公共インフラ整備ができたのだから反省ばかりでは偏ってしまう。
 現況の社会からの課題解決という展望が重要だ。そう書いておいて、随分昔のふるさとを振り返るのは、懐かしいからばかりではない。過去と同じやり方で統廃合をやっては、昔の経済成長期の端っことは違って住めない人々が続出する事が予測できると書いているわけである。
 今後は再び低成長の時代になりそうだ。従来の製造業から吐き出されてしまう人が出てくる。そう考えると、自然と共生可能で自給自足に憧れる人などが増え田舎が見直されるのではないか。つまり50年前に不自然に築かれた昭和時代の都会から戻って来られる時代になると予測もできる。全日本的な人口減少社会において、丹波市は都会に近い田舎の魅力がある。昔、海外に出て行った邦人企業の工場が国内回帰の動きもある。
 公共交通手段を財政も考慮しつつ整備していくことが、丹波を守り比較的豊かな生活圏に導ける要と考える。人口減少に拍車がかかるまでは、比較的元気な高齢者が一次産業を支え、中壮年層の端っこ残存組みが兼業農家として隣近所の高齢者にも拘わり、貧乏暇なし状態で端っこを守ってきたということを理解しないといけない。これからは丹波市の真ん中便利民も、端っこに貢献して共存共栄を図ろう。そうしなければ丹波の経済はジリ貧になり近い将来回らないと考える。とすれば、端っこに支援に行くための公共交通のルートを守り、増やす発想が必要だ。それが成功すれば、昭和時代都会だったところからの移住者も増え続けると予測する。
 細々と趣味や内職程度に丹波の手仕事をする高齢者が持つ技や知恵を守り継ぎたい。埋もれてしまいそうな民芸を残したいと弟子入りする貴重な人を育てるための支援も早急にほしい。

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