②大人の都合
私も高校生の時代には、苦しんだ。思春期だから?
いや違う。私の場合は、家庭環境が悩みの原因だった。
大腿骨を骨折した祖母が寝たきりになり、数年前に脱サラした父親の経営する零細な製額所に雇用された母が家事と畑仕事と介護と工場の手伝いで多忙になった。貧しいという母の思い込みも加わり、父との喧嘩が絶えなかったからだ。
私は、介護や家事を随分協力して母を支えたつもりだったけれど、母の不満は解消しなかった。
そして私の不満も募る。高校生になって予習復習が必要になったのに、自宅学習時間がうまく作れなかった。その悔しさが一番大きな不満の原因だった。
喧嘩ばかりしている両親に、やがて、列車通学の定期券や、授業に必要な副教材、運動靴などの費用を要求できなくなった。
母は年中ぼやいた。近所の食料品や日用品の店には、掛けで買い物をした母のレシートの付けが数枚貼ってあって、私が行くと、その付けを払いにきてくれたのかと催促された。それ以来就職するまで、個人的にも最寄りの店で買い物ができなくなった。
授業料の要求さえ、親の顔色を見る。二つ下の弟には若干甘かった母、弟の高校進学時には通学のバス代も列車の定期代も出してやったと思っていたが、高校生活の後半は弟も多少苦労していた。それで、私が高校を卒業し就職してからの二年間は、毎月ほんの少し弟に小遣いをやった。
その後、弟は親戚に直談判して親に学費を借金させてまで、大学生にもなった。「俺は将来人に偉そうに使われるのは苦手だから、ばかにされないように大学に入る。」そう息巻いていた。けして成績が良かったとは思えない弟だった。そんな弟が憎らしくも感じられ、大学生になった弟への小遣いはやめた。
弟は経済苦学生だったから、アルバイトにも勤しんだ。夏休みに丹波の製菓工場で大量の小麦粉をドラム式の釜の中で練ったり、ゴルフのキャデイをして稼いだ。ドラム式の小麦の攪拌作業場所は相当な体力を消耗させた。しまいには、練った小麦粉が頭髪に頑固に絡みつき、丸刈りにする他なくなった。丸刈り頭はかなり似合っていた。
成績は中であったと思われる弟だが、容姿は俳優の織田裕二に似ているなどと褒められるほど、端麗なほうだった。形の良い丸刈り頭が功を奏して、難波の名物菓子“岩おこし”という米や粟等の雑穀を使った“岩おこし販売員”のアルバイトに採用された。丸刈り頭の純朴なイメージと岩おこしの商品イメージとの相性が良かったらしい。販売場所はスーパーの期間限定催事コーナーで、試食を勧めるスタイルの短期アルバイトだった。流石に大阪が舞台のアルバイト。ひょうきんなアドリブのエンターテーメントが大受け、「ひとつ食べると100メートル、二つ食べると300メートル走れそうな栄養満点岩おこしはいかがですか?」「ひとつで二度おいしい。」「そのままでも、お茶に浸してやわらかくするのもまた旨い。」と声をかけると足を止めてくれるお客様が増えて、突っ込みのアドリブで応戦してくれる土地柄である。
そうなると、「ちょっと男前のおもろい兄ちゃんからこれ買うた。お前にひとつやるわ。食べてみ。」「おいしい。どこで?」「うまいやろ。」「わたしも、男前みてくるわ。」という人情と勢いが発生する。それでスーパーの客足まで増えるという“おもろい兄ちゃん見たさに来てくれるブーム”が起こった。スーパーの店員さんにも認められるわ、トイレ休憩タイムにお互いが隣の店番を頼めるようになった隣のテントの葡萄屋とも仲良くなって、一時期食材にも恵まれたらしい。
他には店員不足の蕎麦屋でも稼いだ。あまりの忙しさを逃れるために、「父が急に亡くなった。田舎に帰って製額所を継ぐ。」と嘘をついてバイトをやめさせてもらった。
それでも学業がおろそかになった。アルバイトで疲れた彼は体が辛いと体育をさぼり、睡眠時間に変えた。結果、体育の単位が履修されずに残った。補うために、スキーの特別授業を受けて、人より二ヶ月ほど送れて卒業したのだった。母が必死で金策に走り、スキーウェアを準備させた。
そして関西の三流企業に入社。ここはブラック企業やと感じた弟は即退社。丹波の実家に帰省して、無職になった。しかし、しばらくすると、以前母に進められて採用試験を受けていた障がい者の養護施設の指導員に欠員ができ、補欠入社した。
そこで出会った運命の人と結婚し二児を授かり、親になった。
その後、処遇のよい一流企業にも転職できた。弟の念願通り、大学卒業という学歴は功を奏したのだった。
戦後、日本の学校制度が6、3、3年制に改定される過渡期に義務教育を受けた父は新制度では中学三年まで学習できるようになったにもかかわらず親の都合により旧制度で(国民学校高等科二年)で修了して、新制度の中学校さえ中退の学歴をもつ。父はかなり優秀な成績だったらしく在学中はしばしば級長を任された。その時のライバルは、高校にも進学し一流企業の重役にまで上り詰めた。同窓会では、出世できずにぱっとしない人生の父を影で揶揄する会話を聞かされた。
過去にこのような悔しい思いをした父は、弟の大学進学を反対したにも拘らず、「苦労して、大学に行かせてよかったな。」と母と語り合ったらしい。
弟は仲良くなった志望校無縁繋がりの同級生に「君は大人の苦労をしとる。お金の心配は大人の苦労や。」と言われた。と帰省する度に言ったものだ。
多くの同級生は親の都合で、なんとなく大学に入学したという坊ちゃん、お嬢さんが取り巻くクラスだったらしい。
弟は同級生の女性にはもてた。
彼は、根暗な性格かと思う時と、お笑いの芸人になる修行をしたら良いやないのと思うほど、ひょうきんな面を、チャンネルを変えるように見せた。このひょうきんさとルックスは、大阪人の心を捉えた。彼は中堅企業の社長令嬢に見初められ「婿になって、将来は社長をついでくれないか?」と本気で令嬢の父親に迫られた事もあった。
「姉ちゃん、俺、○○缶詰の会社の娘婿になるかもやから、この家ついでくれる?」彼が帰省すると〇〇缶詰のお土産が並べられた。
このように、弟は丹波を離れて、大阪府で貧乏学生をしていた。受かった大学は志望校ではなかった。
第一志望の大学受験を目前に控えた弟は、不幸にも高校通学中の峠道で、自転車ごと転倒した。凍結した日陰道で転び、利き手で山中落下を防いだ。その際、利き手に無理な体重がかかったのか親指の付け根あたりの軟骨を骨折してしまい、鉛筆を握る手に力が入らなかった。そして実力を発揮できなかった。
この土壇場で、通学定期が切れていて列車通学ができていなかった。峠道を登り下りして片道20キロメートル強の道のりを自転車で登校していた。弟もまた貧乏高校生だったから。
弟と同様に志望校に縁がなかった学生と彼は仲良くなった。その友達は志望校に受かったものの親が入学金を納める締切日を間違えたというエピソードを語った。友達の親も、ある企業の社長をやっていて、友達は次期社長らしかった。この友達の趣味が放送だった事から、弟は、大学の放送部に入部し、やがてエンターテーメント性を発揮して、人気部長になる。そのかたわら、プロを目指して朝日放送の”ABC放送学園にも入園した。大学とのWスクールを親には内緒で通学した。
そして、やがてその無理がたたる。親からの仕送りとバイト代が底をつき食費がなくなり、栄養失調で、緊急入院する。不幸中の幸いに高校時代の彼女が大阪で看護士をしていて、入院先を世話してくれた。勤めていた私は弟に少し金を貸した。後に返してくれたのはコインサイズの金だった。貯めておく余裕の乏しい私には、使いにくい金は面倒に感じられた。
弟は二人目の子供を授かった後、40代のはじめに舌癌のために舌と首や肩周りの筋肉と声を失った。弟が声を上げて泣いた最後の場所を私は知らない。
手術で、舌を失う前に、癌治療の最前線の情報誌を彼に渡したが、最初は舌半分を摘出し、二度目はリンパに転移したので首と肩の筋肉を失い、ラストは舌全摘出切除を選んだ。
IPS細胞の研究と治療への期待、そして福祉施策の見直しを期待する。
高校時代の私の貧乏対策
高校時代は、下校中の渇きに友達が飲もうという缶ジュース一本の誘いも断った。「お金がないから。飲まない。」
すると、「貸してあげるから。」と誘われた。そこから、私は4キロメートル、友人は10キロメートルあったかもしれない自転車通学の帰り道で、どんどん辺鄙な山道に向かうずっと上り坂なのだった。
「返すあてがないから。」と断り、中学生の時に仲良くしていた別の友人宅が近くにあることを思い出した。そして、お水を飲ませて欲しいと二人で訪ねる。そんな時に、小遣いどころか、教材費にすら、困っていることを話したのがきっかけだったのだろう。友人はこんな私を面倒がらずに付き合ってくれたうえ、親身に考え、自分の母親にこの貧乏苦学生のことを紹介してくれたのだ。今振り返ると一生大切にしたい友達というのは、こう言う事で見つかる。試練も得がたいチャンスなのだ。
ともあれ、友人のお母さんがしているという魚釣り針の糸巻き内職を私にもまわしてもらい、日銭を稼げるようにしてくれたのだった。
家政科専攻だった私は、食物の授業で使う食材費の実費をそこから支払い、余裕があれば、学校帰りに、家族のための食料も買う。そして、その食材と、母が丹精込めた畑の野菜を使って夕食と自分のお弁当のおかずを作る。毎日の弁当のために沢山のコロッケを作り冷凍保存する。弁当のおかずは、ほぼ連日、梅干とコロッケと野菜炒めである。
せめてもの救いは畑からの収穫物や、食材にできる山野草の知識と田舎暮らしの住環境だった。その知識は父からのものだった。幼い頃は、弟と父と三人で山に登った。丘のような低めの里山だ。ビスケットの箱入りをひとつ近所のお店で買ってきて携帯した。山の中で休憩中に食べるビスケットは特別のものかと思うほど美味しく感じた。
父は、山水を飲み、いたどりを見つけると、「すっぱい」とかじってみせたりして、山菜や野の食べることができる草を教えてくれた。そうして、興味をもった私は、小学生の高学年にもなると友達と遊ぶよりも植物ハンドブックを持って、一人で近所の山に嬉々として登ったものだった。
中学生になっても5月のゴールデンウイークや中間テスト、期末テストの前の半ドン休みは、私にとっては里山遊びの楽しい時間となった。
この楽しみ方に母が「女の子が一人で山に登っては行けない。」と注意し始めた。そんなのは気にせず登った日に、ウルシかハゼに触るかして、太ももに火傷のような火ぶくれができた。それ以来、一人で山に登る遊びをやめた。
それでも、培った植物の知恵から食費はなくても大丈夫。自給自足できる。という結論が頭をよぎり、母の貧乏ぼやきが大げさだと思うので、母が嫌いになる。そして、なぜか私は肉が苦手だったから、まるでベジタリアンのような食生活が苦痛にならなかった。
時間貧乏
さて、額縁を作る家業を零細に経営しながら、田んぼの転作奨励のナス、とうもろこし、ジャム用いちご等にもかかわった両親だった。今振り返れば、両親の頑張りも認める。しかし私の小遣いになったためしはないし箱詰めの手伝いとかも強要されて、学習時間はなくなる一方だったから当時は悲しかった。
極めつけは、大腿骨を骨折して、ベッド生活になってしまった離れの祖母と同室で私は就寝したことだった。
その部屋で宵の口は提出課題に取り組んだ。釣り針の内職は週末にしていたけれど、平日の学習時間が不足する。一方母は、忙しい忙しいと口癖のようにぼやきながら、額縁の下請け合い分が一旦納品されると、夕食後ゆっくりしていることもある。
私は食後の後片付けやら、まきで焚く風呂の火の世話をしたりする。そしてようやく祖母と一緒の部屋で被服の宿題をしようとお裁縫箱を開けて取り組み始めたところに、暢気そうに母が入ってきたりする。そんな時、祖母がポータブルトイレで用を足した後、換気のために私がサッシ戸を開け放っていると「寒いのに可哀想」「ほんで早う電灯消して寝たげよ。今日子。」と続いたりした時には、悔し涙があふれでてきて止まらない。
私が小学五年生の時、祖母と共に就寝することにした離れは、東からの風が心地よく感じられる八畳間に縁側も床の間も、押入れもついた良い部屋だった。私が習慣的に祖母と就寝するまでは、祖父と祖母の寝室件居間として使っていて、東の縁側を開放すれば、見晴らしも良かった。そして幼い頃から、その縁側の外に広がる庭と畑が遊び場としても私は気に入っていた。
しかし、数年後その庭や畑は、父の額縁工場に姿を変えた。学歴の乏しかった父は勤め先の木工所や製額所の処遇に不満を抱えて爆発したのがきっかけだった。
一国一城の主を目指し、家屋の側に父の一存で建てた零細な工場は、祖母と私の就寝する離れの住みやすさを奪った。
東からの心地よかった風を奪い、夏は蒸し暑くなった。冬は太陽光を遮った。変わりにやかましい製材の機械音や釘うちのエアーコンプレッサーの音を年中よこした。そして、勝手に父に雇われた母の不満も膨らんでいった。
父親のはじめた額縁の下請け仕事は、受注にむらがあり、慣れた職場から転職を迫られ、従業員にされてしまった母親の貧乏ぼやきがはじまる。また、急かされる受注の時は、夕食後に工場で両親は残業することになる。
時々は両親だけでなく、私達兄弟も手伝いを強制されたりすることもあった。そんな時、弟は要領よく「来週から中間テストやから。」とか言って断ると、しかたないと両親は召集を私だけに掛けなおす。「え、私かて明日から始まる。」と言っても聞いてもらえない。事実、同じ高校に進まなかったから、たいてい中間テストは私の学校の方が一週間早く始まった。
弟は今日、帰宅後、居間で寛いで、テレビマンガを見ていた。私が工場から額縁の端材となった薪や鉋屑を風呂たきように運んでいる時も、夕飯の準備をしている時もそうやったのに。全く、時間作れるくせに。とこんな不満がたまる。
祖母は、大腿骨を骨折した際、なぜか発熱が続き、心臓がもたない可能性を指摘されて、骨折箇所の手術が見送られた。整形外科医の担当がはずれ、三ヶ月余り入院した挙句、やつれ果てて、もう年内いっぱいで命が消えるかもと予見され、バトンを渡された内科の担当医にも見放なされた。
このままでは、見殺しにされてやだけ。そう思った母が、祖母を退院させたいと考え、私に相談した。
「おばちゃんがこのままでは、可愛そうすぎるで、つれて帰ろうと思うけど、今日子も介護をたすけてくれるか?」
おばあちゃんが大好きだった私は、この相談を快諾したのだった。
だから祖母の退院後も就寝場所が一緒でないといけなかった。
おばあちゃんとの絆
何より、幼い頃から、私はおばあちゃんが大好きな、おばあちゃんこだった。おばあちゃんの白い割烹着は私の涙を拭くためにあるのだと思うほど、おばあちゃんの懐は私の泣き場所だった。
幼少の私は股関節脱臼児であった。ギブスを三歳頃までつけていて、木製のりんご箱のような箱の中に長時間納まって遊んでいたから、同年代の幼い友達はできないし、一歳、二歳下の子供からも疎んじられた。つまり私は、元気に同じ遊びができないので阻害される対象であった。
それでも三歳を過ぎて股関節のコルセットをはずして、ようやく歩けるようになると、母親は私を保育園に預けて近くの縫製工場で就労しはじめた。
私は、よちよち歩きのくせに、プライドだけは人一倍早熟に育っていた。
やんちゃな男の子に遊び道具を取られたり、歩き方にけちをつけられ、こかされたりして泣かされた。
そして帰宅すると、おばあちゃんの割烹着姿を探しては一目散に駆け寄り、園での悔しかったことを思い出しては、また大泣きした。するととても癒されて、悲しさや苦しさは祖母の暖かい体温に解けて消えていく。そして落ち着くとなんだか次は照れ笑いをするくせがある。
「泣いたカラスがもう笑ろた。」そう祖母は言いながら、泣き止んだ私の涙と洟でくちゃくちゃの顔をやわらかいガーゼのハンカチで優しくぬぐい拭いて、なだめてから、楽しい遊びやら、面白いお話しをしてくれたのだった。そんなわけで祖母が一層好きになった。
この頃、弟は母親を慕っていたのだろう。おばあちゃんを私が独り占めしていたかもしれない。
ある朝私は、通園用の黄色い帽子のゴムひもがきれているのに気がついた。パート先へ行く出勤時刻の気になる母に向かって、私はあご紐が壊れた帽子を差し出して登園を拒んだ。
「もうー、忙しいのに。昨日のうちに言うて。」そう言いながら、白いゴムひもを裁縫箱からあわてて取り出し、通そうとする母に向かって「いやや、パンツ用のゴムなんか」と大泣きして拒んだ。
「何言うとってんや。どこもまだ店が開いてへん。これで我慢しな。」と母は睨みつけてくる。
そこへ、祖母が自分の頭に被っていた整髪ネットを差し出して言った。「これを使ってやれ。」
整髪ネットの口部分の黒いゴムひもは通園帽子に元々付いていたそれにそっくりだった。
幼い私は、ほっと一息ついた。しかし次の瞬間、別の感情がこみ上げてきた。
私はつい先程まで「白いパンツのゴムひもを帽子につけてかっこわるー」と他の園児に苛められやしないかと心配して登園を拒んでいたのだった。
それは、祖母の差し出してくれた整髪ネットの黒いゴムひもが母の手で抜かれた瞬間に整髪ネットは見る影もない形に変わった瞬間だった。
泣いていた私は、はっとして『おばちゃん、ごめんなさい。』
自分のわがままのせいで、大好きなおばあちゃんの大事なネットを私が壊したと思って悔やんだ。
それを契機にわがままを言わない我慢強い人になろうと心の内で誓った。そして一層祖母が好きになり、おばあちゃん孝行に励むようになっていった。
小学五年生の冬、私の誕生日の前日に動脈硬化による心不全で祖父が急逝したあと、一人就寝する祖母の寂しさを救えるのは今日子だと母が促し、私も喜んで、祖母の隣で就寝する習慣になった。
母屋の二階に弟の机と隣り合わせに並べてあった私の学習机は一階の更に下にある土間状になった炊事場に引き摺り下ろされて、配膳台の役目をさせられた。
その代わり祖母との相部屋に元々あった古い文机が私の学習机になった。
その頃には、祖母の喜ぶことを思いつくと毎日実践した。
友達より祖母と過ごす時間が楽しく惜しかったから、放課後の誘いを何かと理由をつけて断った。そして一刻も早く帰宅する。祖母が勤しむ畑を手伝い、祖母のリュウマチの薬を朝昼晩に分けてみたり、指圧の壷を「家の光」という農村向けの月刊誌の特集から学んで、祖母の体で実践したりもした。
そんなふうにして高校一年まで、学校からの帰宅後や休日は祖母の勤しむ家事を手伝い、畑仕事も手伝った。今思えば一通りの家事がこなせるように育ててもらった。
祖母のしていた化粧用のパフを縫う内職を手伝うのも好きだった。祖母の影響で、針仕事は幼い頃から好きであった。小学生の頃着せ替え人形の服なども手作りした。祖母は母と違って、なんでも丁寧に、教えてくれたものだ。
祖母の内職収入が入ると、行商(小さな移動スーパー)のおばちゃんの持ってくる、びんちょうまぐろのお刺身を買って、家族に振舞ってくれたりする。毎月「今月給金もらったら○○買って食べよう。今日子楽しみにしとき。」と祖母が予告してくれるので、ささやかな贅沢を待つのも楽しかった。
祖母が大腿骨の骨折入院をした高校一年の夏休み中は毎日付き添う。二学期からは、学校帰りに自転車で迂回して病院に立ち寄る。 しかし、手術もできずに二か月ほどたった秋、元気だった祖母と過ごした畑に一人佇んで、もう祖母は歩行できない。ここには来れないのかと悔しくなる。ついこないだ一緒にいい汗をかいた畑だ。鍬やトンガで耕し整えた畦の土の匂いに胸いっぱいになって涙が溢れ出して畑の畦を湿らせた。
祖母は骨折した大腿骨の足の手術ができないまま、三ヶ月入院しているうちは原因不明の微熱が長く続いて退院を希望する頃には毎日導尿が必要なほど衰弱していた。げっそり痩せこけて、50キログラムほどはあったであろう体重は30キログラムくらいに減り、可愛かった瓜実顔は見る影もなく、60代の半ばにして、全白髪の山姥みたいで目玉だけぎょろりと気持ち悪かった。
リウマチ熱を疑って、内科の担当医に告げてもみたが、原因不明と扱われた。そして、看護婦や同室の患者さんに、疎まれはじめていた。「微熱やのに大層に…」「トイレも寝床でやろ。私ら迷惑被っている。」
私の母が退院させると言ったから、この環境から救い出してくれたと、おばあちゃんはずっと死ぬまで感謝した。
退院後は、リュウマチ熱を疑って、町内の往診可能なお医者様に調剤やら往診やらをお世話になり、微熱が解消されると、祖母は日毎に快復していった。
そして、一年後には、ベッドに紐を結びつけるなど工夫を要求して自力で上半身を起こす事が可能になった。それから新聞広告からポータブルトイレを見つけて、ベッドの傍に設置し挑戦する。すると思い通りに用が足せるようになっていった。
また、離れと母屋を結ぶ渡り廊下の一角(離れの西側にスライド式の戸があり出入り可能でその出入り口の直ぐ側に)渡り廊下の板と高さが並ぶほどの簡易な洗面所を設けさせた。祖母の工夫は進化し続け、日常生活のクオリテーが上がった。その設置費用は、祖母のもらうわずかな国民年金で、払い出しは私の仕事であった。もちろん処方される薬等も私が学校の帰りに迂回してもらってくる。
祖母の快復で、少しずつ塞がれた家庭の空気も改善した。
けれど気楽な父は私と母の施す介助にどれだけ時間がかかっているのか興味をもたなかった。もう全く祖母が自立できているような錯覚をしていた。
私は、やはり宿題をする時間が不足した。
しかし、祖母も深夜にいつまでも明かりを灯されていては、たまらないらしかったから、両親の就寝する部屋の隣に移動して宿題等に取り組む。そこは母屋の居間だ。冬は豆炭コタツを設置している。豆炭のいこし(点火)役は私が担っていて風呂焚きのついでに行う。風呂は五右衛門風呂である。鉄の鋳物でできた大きな風呂釜が土間の片隅に設置されている。土間の上に薪を放り込むスペースを空けて煉瓦が組んでありその上にお釜が乗り、お釜の横に体を洗うスペースの床がタイル張りしてあった。洗い場と釜をぐるりと囲む壁の一方向にすりガラスの木枠の窓があり夕方は西日が入った。洗い場のタイルとお釜の淵にもタイルが施工され其々に排水口が一つある。釜の淵に簡単な水道の蛇口がひとつあり、ノズルが180度に動かせた。この水道からお釜に水を張り、満水面から10センチ下まで溜まると、薪に点火するのだ。わざと熱いめに炊き上げて水道水で適温に冷ます。そして、釜の底に向けてゲス板という火傷防止の円盤を放り落とす仕組みで入浴する。
すると一番風呂は満水に近い。風呂桶で湯をすくっては、体を洗う。祖母を除く家族が次々とこうして入浴すると、一番あとは、湯の水位が足元くらいしかなくなってしまう。
しかも冷める。シャワーなどはない。冷めてしまえば、また沸かす。という不便な設備だった。
たきつけにくべた薪が炎を出したあと、おとなしく炭化して、オレンジ色に、いこってくると、大き目の鶏卵くらいある豆炭という黒い墨を一緒に炊き口に放り込む。そして10分から20分程度すると点火された豆炭がいい感じにいこる。次に、専用のウレタン敷き容器に入れて、コタツに用いる。たいてい半日の暖を提供してくれるのだ。初めは夕方そのコタツの暖を学校から下校してきた弟が、先ずは独り占めしている最中、私は夕飯の仕度を風呂焚きと同時進行でする。それから祖母のポータブルトイレを綺麗にし、夕飯はそのあと。
その夕飯を喧嘩中の両親が悲痛なものに変えることもある。私が内職で稼いで買った食材で作った料理が、父の癇癪で、飛び散った日には、憤り泣き叫びながら、おばあちゃんのところに飛び込んで行く。
しかし、祖母は「自分が厄介者で世話になっているから早く死にたい。」と悲壮な弱音を吐く事もあって、私は泣き場所を間違えたと思うことになる。
また深夜十二時頃のコタツは最初暖かくてよかったものの次第に威力を失う。夜中の二時、三時に被服の宿題が終わる事もしばしばある。そんな日は途中に風呂を沸かしなおす。冷えた体を温める為にもう一度まきをくべる。これを怠るとさらに体が冷えて朝まで眠れない。こんな生活習慣のせいだろうか、中学二年に始まった月経が、高校一年の後半から半年以上来なくなり、体には老婆のような紫色の染みが浮かぶようになった。
祖母の体にも時々できている「死に黒子がこんなところにもできた。」と祖母が見せてくれるものとそっくりだ。神経性の胃炎やら、十二指腸にも異変が出て、寒い冬には、うずいて眠れなくなった。毎日の平均五時間足らずの就寝時間なのにトイレに頻繁に起きる。トイレは母屋にしかない。それも土間に一旦降りたところに在る。足を踏み外さないために、明かりも点す。頻繁に起きて母屋に出入りする私。安眠妨害に腹を立ててか、母屋に踏み入ると、物音を聞いた父が、「ほんまに年寄りみたいに何べんしょんべんにおきるんじゃ。」とふすま越しに罵声を浴びせてきたりもする。
母屋で深夜にそろばんの練習(進路希望を就職選択していて検定前)なんかしようものなら、父が隣の寝室から怒鳴り声を上げる。家政科専攻、就職希望組みの私の宿題は圧倒的に、被服の製作等の手仕事、ミシン仕事が多かったから、まずは、最優先。とにかく単位取得に影響するものを優先した。しかし他の教科はサボリまくる。予習なんて全くできなかった。
週末の土曜日はお弁当を学校で食べて少しだけゆっくりほっとできる時間を教室で作った。釣り針内職斡旋の友達は途中までは列車で帰る。たまには列車を下りた駅で待っていてくれると、そこから一緒に自転車だったりはする。自転車のみを使う下校友達も数人できる。しかし長い道のりの前半で他の皆は帰宅したり、別の帰路に進む。後半は一人きりになる事が多い。すると考え事をする。
土曜日、帰宅後は夕方まで半日泣く。ベッドに横になるおばあちゃんに背を向けて、東向きの塞がった縁側で、この一週間の悔しかった事柄をひとつひとつ数え上げるようにして泣きつぶす。
幸いというか、工場の釘うち用エアーコンプレッサーやら、製材機の音にまぎれてその声は消された。泣き止むと、ちょっと楽に自分と向き合える。そして、母屋の仏壇で手を合わせ、父や母のようにはならぬ。おばあちゃんを安心させられる大人の女性になると誓うのだった。
どんどん成績が下がりそうだけれど、幸い中学校では体育の他は上出来の成績だったから停滞しながらも無事に高校を卒業できた。
ふと中学校時代の平和で楽しかった頃を思い出す。
テスト前は半ドン授業だと喜んだ。帰宅後は、山野草収穫するような遊び方をしていたけれど、中学校二年生までは授業を聞いているだけで、かなりできた。三年生になっても同じ調子でテスト前にゆっくりしていると、中の上に転げ落ちた。その時はじめて焦った。そして、周りの生徒は高校入試目指して励んでいたのだと気がつき反省した。
それでも、高校は志望校に楽に入学できた私は、将来何になりたくても可能なように、上を目指そうと中学生の時には持たなかった学習意欲が芽生え、一年生の一学期は予習復習に励み実に学生らしかった。しかし、残念な事に私の高校生らしい暮らしはこの時点までだったと思う。
暮らしが大きく変わったのは、高校一年生の夏だった。夏休みに生物班活動の合宿先に連絡が入った。父からだった。
「おばあちゃんが転倒して、足を折って県立に入院した。」
「え、この前こけて腰打って痛い言うてたほう?」
「そうや、今日テレビの前でまたこけて、大腿骨が折れてしもたんや。」
「私、帰ったほうが良いか?」
「看護婦さんも医者もおるし、おかあちゃんも付き添っとるから、何とかしてくれてやろうかい。」
私の頭の中は色々忙しく動きはじめていた。合宿先は郡外で、ここには貸し切りバスで来ている。徒歩で最寄り駅まで行けばなんとか一人帰路につけるだろうかとか…
痛いけれど、日にち薬やと湿布だけで済ませていた祖母。不安を抱えたまま家族に遠慮して病院に行かなかったのが災いしたのや。
結果的に骨折の誘引になったであろう夏休み前の祖母の転倒シーンを思い出した。
台所の裏口に納戸があってその前の段差で祖母は尻餅をついた。その様子を近くで見ていた私は、不謹慎にも「あはは、大丈夫?」と笑いながら、助け起こした。当時の私は、閉経後の女性に骨粗鬆症のリスクが大であることを全く知らなかった。今思えば、祖母の背骨はすでに前傾していて骨粗鬆症があったのだ。
帰る方法等を合宿先で考えていると、父の弟夫婦が、母に頼まれたと言って、私を迎えに来た。慌てて、顧問の先生に状況を伝え、その場から祖母の入院先に向かった。そして、その晩病院で付き添うことになった。
後日談では、私に付き添いを交代させ手術の出血に備えての血液集めのために親戚に電話するなど、母は奔走したらしい。
祖母が転倒して、大腿骨を骨折した翌日から、大好きだった野山の散策ができる生物班を続けられなくなった。やがて、無給の介護と家事が本業になってしまっていたと思う。
小遣いも時間もなかったから、往復40キロメートルほどの道のりを自転車登下校した。結果、自宅で不足する睡眠時間を授業中に摂るような日々に変わった。それでも、成績はなんとか保ちたかったから、一応、睡魔と闘うのだが負けてしまうのだ。古典の授業なんかはほとんど夢の中で、誰かの朗読を聞いていた。英語の授業は、当てられたクラスメートの音読で新しい単語の読みを覚え、訳文発表をその場で拾って書き込んだ。睡魔と闘いながら。ノートも鉛筆も節約の対象になった。二本の短くなった鉛筆はお尻を張り合わせ、ノートは二教科を一冊でまかなう。
高度成長に半分乗りそこなった田舎の兼業農家は、何か家族の問題を抱えると、そこの長女は高校なんか通う余裕もなくなるのが現実で、こうなると、高校なんか辞めてしまえと、頭をよぎる。
そんなおり、日本育英会の奨学金制度について担任の先生が紹介してくださった。今の成績を維持していたら、利用できるかもしれない。かすかな、希望の光が差し込んだような気がした。そして、その話を父にしてみた。すると、父はこう答えた。
「親に恥じかかせる気か!」
何言うてるん。親らしい事してくれてへんやないの。いつも、お母さんと喧嘩ばっかりして。おばあちゃんの世話も、私とお母さんだけで背負ってるのも分からんと。と言い返したかった。大人の都合で、何でも好きなこと言って、どれだけ、私が時間貧乏してる知りもしないで。
やがて、卒業して、北近畿に複数店を経営する中堅スーパーへ就職。現場ではなく、本部の財務部経理課売掛金かかりになった。授業料をやりくりする日常から開放され、新卒社員の入社前教育の成績は大卒、高卒含めた女性の中では最優秀で褒められた。自分の力を認められ、先輩や部課長からも期待されて、わくわくしていた。
しかし、二年目には開店する新規店が増え、仕事量が倍増する。そこで残業し、帰りが遅いと、母は、部課長宛に娘をやめさせると年始に電話をかけてきた。私は母の所有物のようで悔し泣きをした。
祖母の世話や家事が増えて母を追い込んだかも知れない。
この電話事件のあと、4月のはじめに大雪が降った。
その日、最寄りの食料品店付近までやって来たタクシードライバーさんと、母は会話した。「季節外れにすごい雪やね。」
時刻は夕方で、まだ降り積もろうとする雪がしんしんと降り続いていた。
「こんな日は、もう早くしまうつもりや。事故にあうのもいややから。」とタクシードライバーは答えた。
そんなやり取りを私は知る由もなかった。その日も残業して、最終の列車で最寄駅まで帰った。夜の十一時過ぎ、小さな田舎駅の外に目をやるとかなりの積雪。自分のノーマルタイヤの車を駐めたところに歩いて行くまでもなく、雪道を運転して帰ろうとは思わなかった。しかし外に出て、駅前広場の前方に視点を移すと、タクシードライバーさんが、スノーチエーンをタイヤに設置している姿が見えた。近づくと、「もう少しだから待っていてね。」と言って、私の乗車を歓迎してくれたのだった。乗車して家まであと二キロほどの地点で、母がこちらに向かって歩く姿が見える。近づき、やがてタクシーとすれ違い、タクシーの中の私に気がつくと、今度は折り返して歩く姿が見えた。この姿を見た私は、次の日、退社の決意を主任に告げた。すると、「せめて夏のボーナスまで、在職したら。」という主任の進めに従った。部課長は「パートさん条件で再考は?」と聞いてくださったけれど、初秋、はじめて社員になった会社をやめて転職した。
転職先は、母の干渉をできる限り削ぐために、また県境を越えて、京都府福知山市の就職先を選んだ。兵庫県の郡内にも内定先をもらったけれど、面接後の採用通知が遅れていた福知山市の中古車販売の会社を選んだのは、ささやかな私の抵抗だった。
事務員兼、お茶出し係りになった私は、ここでセールスマンが連れてくる様々なお客様と出会った。
派手なアメリカ車や、高級なベンツや、セドリック、日産の高級車、スズキ、ワーゲン等、車音痴の私には、その性能の違いは判らなかった。けれど、重量税やら、収得税の違いには敏感になった。
そして、派手な高級車購入に無理そうなローンを組む人をたくさん見た。ある時、化粧けの無いやつれた婦人がやってきて、夫のローン返済についてセールスと事務所の外でバトルする姿も見た。
弟の大学入学をきっかけに、たばこ銭も節約していた父親の仕事着姿を思い浮かべる。父は母が愚痴ると、癇癪を起こして、暴力さえ振るったが、父は私達の生計を守る努力をしていたのだと改めて思う。すると、私の頑な父親に対する反抗心は消えていった。
そして、再び転職を試みた。今度は、大手パン会社の北近畿販売ルートを下請けしている会社の事務員として働いた。
この時期、元気だった弟が、勤務中の私に電話をかけてきた事があった。取り次いでくださった事務員仲間の先輩は、弟のしゃべり口調と声を褒めてくださったので、アナウンサー志望やったというと「やっぱり違うわ。」と感心してくださったのを覚えている。