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第二章 若返り人体実験の背景と推移

日本の年金制度崩壊までが秒読みに

 2010年ごろから年金受給額は保険料収入を上回っている状態が続いている。給付額の不足分は国庫(税金)から補填し、さらに保険料の一部を年金積立金として保有して一部を運用しながら、切り崩している。これは、なんとか手を打たねば…

 そんな背景の中、山中信弥教授が、IPS細胞(多能性幹細胞)を発見した。2012年には山中教授はノーベル生理学・医学賞を受賞した。

若返り人体実験と年金制度

 山中教授は受精卵の成長過程である胚性幹細胞のような、人の体にどんどん分化形成されていく細胞を胚の他から見つけ出した。分化し成長してある部分になった細胞にも、人体全体の設計図と目次のようなものを発見した。種から増産しない植物培養に似たしくみが人にも見つかったのであった。つまり、ある臓器が不全になれば、人工多機能性幹細胞を使って、その臓器を創り得るのだ。

 その研究のおかげで、肌の若返り、骨の若返りにお金をかける富裕層も出てきたし、培養した分化細胞からなる臓器を移植して難病から救われる可能性もでてきた。しかし、経済的に庶民にはまだ難しかった。しかし、もし近い将来に庶民にも、その技術の恩恵が受けられるとしたらどうだろう…

 このように、再生医療に関する一連の研究が更に深く多岐に行われた。年金制度の崩壊を先延ばしに、あるいは立て直しに貢献できるのではないかと国による調査研究が秘密裏に行われていたからだ。

 そしてかなりの若返りが体中に起こせる施術R30の技術が2015年には誕生していた。それはマウスを使った実験にはじまり、最終段階では、無期懲役の囚人を使って行われた。

 R30とは、ある程度体力がある老齢期の人間を30代くらいの若かりし人体に戻す施術である。囚人を使った10年間の施術実験経過報告書(2030年公表)によると、60代と70代の無期懲役の囚人、男子5名女子5名計10名を使って毎年10年間、総勢100名を対象に行われていた。

 まず70代では実質30代といえるほどの若返りは起こらなかったが50才相当の若さには戻れる。

 60代への施術結果は、想像をはるかに超えて30才相当の若がえりぶりである。その結果の違いは施術前の筋肉量の違いや、施術スタート時の脳の萎縮の有無による差ではないかと予想されていた。そして、若返りにかかる期間は約5年ほどであるらしい。マウス実験では再び若返ったおとなのマウスの寿命は、99パーセントが約1・2倍から1・5倍に延びた。しかし実験用のマウス自体を百匹使うとしてもロット単位で施術実験するが、異なるロットでは違う結果が出る。親が異なる為の遺伝的な要因、生育環境の差などがあり、当然、結果にばらつきが生じていた。また、マウスの中には若返りが起こらなかった例も1パーセント出現していた。そして若返りが起こらなかったマウスの寿命は平均寿命より短かった。

 実験用に育てられるマウスは、施術しなければ、平均八百日程度の寿命なのだが、もっと広い自然界での個体差は計り知れない。つまり、本当に寿命が延びたと言い切れないのである。

 囚人を使った寿命の結果は、数十年先でないと分からない。しかも、囚人となってからの食事を含む生活環境がほぼ同じである。しかし、檻の外の人間の生活環境は大きく異なる。囚人さん同様の結果が出ない可能性も考慮する必要があるだろう。主に挙げるとすれば飲酒や喫煙、睡眠と労働の質や量の違い。生活エリアにおける寒暖の差等がある。

 夫あてに送られて来た白い封筒の中には若返りビフォーアフターの写真集の他に、R30科学的考察という別冊が添えてあった。その難しい別冊を今日子なりに読みくだくと、魔法のように一瞬に若返るのではない。R30の施術後は、古びた細胞をドンドン新しく更新していくターンオーバーが、ものすごい速さで起こるらしい。その変化は、寝る子は育つといわれる赤ん坊のような睡眠を伴うようだ。そして昔の自分に似て修復されていく。といっても、成人してからの生活習慣によってできた筋肉とかも影響するので、過去の30歳当時より、筋肉質であったりはする。更に、蓄えられた知識や能力は晩年に持っていたものが活かされるのである。

 つまり、若い青年の体力と、いままでの経験値が使える逞しい青年の誕生ということか…

「すごい!  私も65歳くらいで挑戦したい!」今日子はそう思った。

 しかし、その考察には、マウスの寿命が施術結果では99パーセントが1・2から1・5倍に延びたことは書いてあるが、人体ではまだ未知である。写真集を見て若返り効果に興味津々の今日子は、それほど深くその時点では考えが及ばなかった。

 年金受給R30引き換え法が成立した2030年(2031年4月1日施行)、年金制度崩壊秒読みを翻す事と、再び若くなれるなら、年金の受給が先のばしされてもよいと簡単に考えた過半数の世論(現若者は特に年金制度崩壊に危機感をもっている。そこで今回の支持率アップは人口分布が減ったとは言え現役世代の感心が集結した証でもある)に煽られ、年金受給R30引き換え法案は可決されてしまった。しかし制度の利用を選択するのは60代の高齢者に限られている。

 今日子は既婚者で二児の母、2030年現在57歳。飲食店でパート勤務をしている。今日子はR30施術を近い将来希望したいと思っている。その夫は昌男65歳。長年勤めた会社を60歳で定年退職した後、パン屋の配達パートをしている。二人の間に誕生した息子と娘はすでに独立、それぞれ結婚している。近くに住む長男夫妻のところには男児も一人誕生している。1歳半になった孫は、片言が話せるようになり、かわいい盛りである。

「私も挑戦したい! 60歳で施術希望申請して、65歳でR30受ける。」「もう一回30歳くらいに若くなったら、いっぱいしたいことあるなー」

「けど、俺は、今更 年金受給先送りして、あと30年も働き続けるなんていややわ。」「もうゆっくりさせてくれや。」

「そうは言うけど、今も昌君パンの配達してる。」「なんやかんや働くこと好きなくせに。」

「呆けん程度にジョブ。」「美味しく飲むためにジョブ。」「30年先送りしたら、年金もらえる確率低すぎ!」

「そうかー」「年金受給30年先送りと、就労の義務と引き換えの法律やったね。」

 若返ってしたい事って、具体的には何がしたいと自問する。「うーん…昌くんと行きたいといって、行けていない世界のミステリースポット旅行、スキューバーダイビングで綺麗な沖縄の海にもぐる。自分の経営するカフェの夢も叶えたい。そのカフェは丹波の自然を大切にしたおもてなしで、私の友達は勿論、京阪神に住む昌君の昔のお仕事仲間がわざわざ訪ねてきてくれそうな季節感のあるお店にしたい。」

 R30引き換え法の施術費は国庫負担で賄ってもらえる法律で、施術による病気発症リスクも国が負担してくれるかわりに年金受給が30年先にのばされることになっていた。もし個人負担100パーセントで施術するとなると費用は、約2000万円。施術の後は睡眠量が大幅に増える。施術から1年ほどは1日20時間平均にもなるという。そして、経過をみながら施術後のホルモン剤投与などもある。その間は仕事どころか、身の回りの事さえ支援してもらう必要が生じる。そんなわけで、1年目は入院して経過観察が必要となり、その費用もふくまれる。2年目は平均睡眠時間が16時間、3年目は12時間、4年目は10時間、5年目の終わりに8時間平均と、政府の発表した資料に書いてあった。

 若返った囚人さんの施術前、施術5年後の写真集に添えて睡眠量の推移がそれぞれ書いてあって、平均値がまとめてあった。

「迷うなー  5年間の生活の保障か…」「しかし、こんなに若くなれるのは、すごいなー」

 R30施術囚人さんの若返りの写真集を見てから一週間ほど経った。今日子は仕事の休みに、R30関連の新聞記事等をインターネットで探し出した。

 政府は、60歳から、R30施術希望を受けつけ、68歳で締め切る。施術の実施は61歳から、69歳までとなっている。

 まず、夫宛に資料が届いたのは、60歳を過ぎた施術対象者に優先的に進めているという事だった。5年ごとに申請締め切り年齢と実施年齢を見直す方針らしい。そのうち希望者先約何名までという制限枠を設ける可能性もあるらしい。若返ることは出来ても、施術からの5年間の生活の補償が少ない事と若返った後の寿命がどう変化するかが未知では…と批判の記事もある。一方で、このような千載一遇の若返りチャンスを活かせと言う記事もあり、若返った人には、若返り記念写真を無料撮影進呈いたします。是非ご検討をといった具合の若返り記念旅行の案内やら、服飾店やら、美容院やらがビジネスチャンスを活かすべく歓迎ムードの記事もある。

『そうか、寿命がどう変化するのか等、未知だ。案外希望者が少ないかも…』

 既施術者のその後の経年が少ないので、今後の人体への経年影響を追う必要もあるし、社会的に予想外の弊害もあるかもしれない。

 もとより、目標の年金積み立て額が十分になり、労働人口とのバランスがとれてくれば、制度は必要なくなるという考えもある。今後50年ほどの展望のようだ。

 女性はR30施術後、妊娠出産は可能なのだろうか?

『もし、私が65歳でR30受けたら、見た目30歳、実年齢65歳。いや、5年の睡眠量増加期間で、その間に若返るわけやから、70歳てことや…』

『昌君78歳やで、30に見える嫁と78のじいさん夫婦てこと…ふふ。』

『受けたら、就労義務あるわけやし、迷うわー。ふたりでもう一回青春しよう! っていう提案しかない!』

『女性はR30受けたら妊娠もあるのかなあ… 30歳の体に戻れても卵はもう難しいか、人工授精による出産はできる? 』

R30科学的考察によると、囚人女性の月経再開については例がないのか記述がなかった。

 ご近所さんは、この制度をどう捉えたのだろう?

 お隣のご夫妻はどうなのだろう。確かご主人の方が5歳上やった。

 今日子が施術を選択できないまま5年が過ぎた。2035年

 今日子は62歳、まだ施術希望申請はできる。

 今日子の夫昌男は70歳になった。パン屋もやめて孫と戯れている。ちょっと足腰が弱くなってきたかな、孫は小学一年生になって、分別もあり、「おじいちゃん無理するな!」と言いながら、昌男相手にキャッチボールを楽しむといった平和な日常でもある。

 今日子は、膝が痛むとか言いながらも、まだパート勤務を続けている。そろそろリタイヤして孫と夫と一緒に遊ぶのもいいかなとか、R30の施術申請しようかと迷いながら。

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