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第三章 若返りカップル

①隣の夫妻 直と妻ふみえの選択

 直は64歳で施術を受けた。2035年現在、実年齢68歳。けれど、見た目は溌剌とした青年美である。今日子は、お隣の直の変化を目の当たりにして、ちょっとドキドキしてしまった。

「見違えちゃった。R30の施術を受けられていたのですね。ご長男さんの直弥君が帰省しておられるのかと思っちゃいました。」

「ははは…はい。ふみえが、一緒にもう一度青春しようって言ってくれたので、思い切りました。今、就職先を探しているところです。政府のすすめで、去年は職業訓練も体験しました。時代の要請に乗れるよう再教育です。そのせいか、気持ちも若くなりました。もう一度、社会のお役に立ちたいって気合が入っています。はは…先はわかりませんがね。」

と若返った素敵な笑顔で言われると、今日子は堪らなくお隣の直さんが眩しく見えた。

「これ、パート先で頂いたので、おすそ分けです。それでは失礼します。」

「あ、どうも、ご馳走になります…」

という直からの礼も今日子は中途半端に聞いて慌てて帰宅した。

「わー驚いた。あの若返りぶりは半端やないわ!美青年やった、声まで若返って、まだ、ドキドキしとる。ふー」

 家のリビングでは、夫の昌男が、ソファーに腰掛けて、野球中継を楽しんでいる。見慣れた光景だ。このまま時間が止まればいい。平穏すぎるが、それなりの幸せがある。けれどこの先、年齢を重ねて今まで出来たことができなくなる日が来るのだろうか?

 夫に介護が必要になったり、先に逝かれたら、私はどう生きていくだろう?

 そんな事を、ちゃんと受け入れることができるだろうか?

 R30を私だけでも受けて若返りができたなら、最期を私が支えてあげられるかな?老々介護にはならないよね。R30を受けて若くなったら、仕事を生きがいにして、そういう喪失感からは、早く開放されるかもしれない。

 どちらにしても、最期は思い出だけしか持っていけないのならば…と今日子は思った。

直の社会復帰(2036年)

 若さを取り戻し、熟年の思考も兼ね備えた直の再就職先は、すぐに見つかった。60歳の定年までは、農機具販売店の営業マンをしていた実績がある。また、スポーツ好きで様々なスポーツ観戦と実技を趣味にしてきた直である。それらの経験がかわれて、スポーツ用品と玩具の会社に就職できた。そして新しいスポーツゲームの発案やスポーツ用品の開発を任された。

 人工知能の進化のおかげで、様々なハンディキャップに対応できる装具が開発されている。例えば脚力、腕力が落ちてしまった人でも、行動したいイメージが頭脳に閃くと、その微弱な電気信号を装具がキャッチして、ほぼ健常者なみの動きが可能となっている。

Iとの協働

 興味深い新しいスポーツやゲーム

 AI(人工知能)の進化はゲーム開発にも様々な貢献をした。

 例えば農業などの収穫作業形態が、レジャーやスポーツゲームになったりもする。人工知能が、パターンの良く似た農場や作物の作付け条件を探し出し、総合的に収穫作業に必要な労働量と必要な労働時間、使用燃料費を予測する。その予想よりも、秀でた作業グループが誕生すれば、その収穫方法をヒントにしたスポーツやゲームが作られ流行する。

 そこには、ドローンの操作があったり、球技の技が活かされたり、折り紙や、風呂敷の使い方まで、産業ロボットと人の行動との間に様々な工夫が見られて面白い。

 農場ロボット対決というより作業人数の集合力対決になる場合もある。なんせ、AIの進化で、分野別の労働人口分布が揺らぎはじめている。スマホのアプリにエントリーしておけば、近場の農場で、収穫作業人員募集、何時集合などと紹介もしてくれるから、即日アルバイトする人もあるし、ゲーム感覚でボランティア参加したいとやって来る人もある。

 そんなゲームが流行する事で、新しい作業展開モデルは速く広く伝わる。つまり農業分野の技術や流通改革も速くなった。(需要先の発掘と連携した無駄の少ない作付け計画と収穫作業の効率化、供給ルートの省エネ化検討などが進んでいる。)ゲームが売れれば、その収益の何割かが、農業振興に役立たされるといったコラボレーションをして会社の優良企業ぶりをテレビやネットでPRもしている。

 直は農業作業風景等を取材に行く。かつての農機具販売時代の顧客が、面白いネタを教えてくれたりして、助けられた。

 AIに学習させる資料を積極的に集めなければならない仕事である。また取材先から、ヒントを得るだけでなく、直はスポーツ好きや農機具販売時代の経験から閃く事も多い。そんな閃きを顧客に提案したりもする。そんな訳で、会社の中でも、取材先でも、直の評判はうなぎ登りとなった。

顧客からの質問(R30施術体験について)

 また、かつての顧客の中にはR30施術対象の世代がかなりあって、その選択を迷っている人からの質問もある。「施術から5年の若返り期間のサポートさえあれば、だれでもチャンスは活かせる。」「妻の支えのおかげです。」と直は答えている。まあ、受けるなら早く申請したほうがいい。出遅れたら、施術5年後の時代の変化についていけなくて、再就職で苦労する可能性もあると考えたりもした。しかし、そこは個人的見解というか偏った見方かも知れないと思って、助言しなかった。

 R30施術について、他には、

「施術そのものが怖くなかったか?」とか、中には配偶者が病気だとか、先立たれたとかで、思い切れない等と、ぼやきなのか相談なのか判別できないのもある。そういった話には「そうか。そうだな。」としか言ってやれない。

 自分たち夫婦は意見も揃い、どちらも健康であってR30施術を決断しやすかったのだなと改めて思う。

 施術そのものへの不安は、実はかなりあった。R30科学的考察では、施術後の人間の寿命の変化は検証されていなかったからだ。施術の影響で短命になる可能性も否定できない。しかし、とりあえずマウス実験では寿命が延びたらしい。できれば自分たち夫婦は、あと30~40年延びればと期待する。現役の30代の若者とともに寿命を迎えることができればと考える。しかし、分からないのが現実である。ひょっとして、とんでもなく長生きしてしまう可能性もある。その不安はある。妻自身も施術を希望してくれ運命共同体となったことは励みになった。

 しかし、個体差はあって、どちらかは短命化し、どちらかは長命化する可能性もあるだろう。

 施術は、全身麻酔で行われ、脳にAIチップを埋め込み、脊柱に多機能幹細胞を移植した。その後、様子を見て成長ホルモン剤が投与されるというのが概要であった。生まれてはじめての全身麻酔による手術だったから、施術前は緊張したし、手術後は、麻酔から醒める時の倦怠感は想像を越えて気持ち悪かった。しかし、順調に若返って、現状は成功を収めようとしている。

 直の勤務拘束時間は、週25時間ほどである。フレキシブルな勤務だ。自由な時間が人の閃きを促す。といっても、どこにいても様々なヒントを常に求めているといった方が正しいと思う。

 農業に限らず、林業、漁業も、人とAIの協働やら連携次第で、面白い就労分野として再浮上してきている。

 少子化日本は、AIの片足と人々のコミニュケーションの力を束ねてできたもう一方の足とで支えられている。短時間の勤務やボランティアを掛け持ちする人も多い。

 少子化と、AIの影響は大きい。もちろん、AIに仕事を奪われたという表現をする人もいる。しかし、どちらかといえば、バランスよく家事や育児や在宅介護が選べるのも、AIのおかげである。そして、女性の社会進出も急速に進んだ。AIとの協働に女性の内助の功的な知性がうまくミックスされる事で、社会は随分居心地よく作り変え得る事を男性も気がつきはじめていた。

 直は女性の視点を社会に活かす事にも熱心になった。特に妻がR30施術を受ける為に入院した一年目は、家事の雑用の多さや、地域の細々した連携を伴う奉仕作業などを妻が知らない間にこなしてくれていた事に感服させられた事がきっかけになっていた。

 例えば働く女性は、仕事帰りに、買い物をする。それならば、その時点の冷蔵庫の中身が確認できれば、無駄がない。では、出勤する前に確認して出かければと思っても、他の家族が兼業主婦の勤務中に冷蔵庫を物色して在庫が変わる。あると思ったものが帰宅後無くなっていたり、昼間在宅家族のランチメニューと夕飯がかぶったりを防ぐのにも、AIが機能してスマートフォンにお知らせが入る等すればストレスは減る。

 家事を担う人のタイプ分け(仕事の有無以外に家族構成や年齢の違いなど)を行い、タイプ別の買い物のルールを分析する。

 他にはブーム食材につながる人気料理番組を知る。料理番組に食材の提案や提供を試みる。農業の作付け計画等にも大きく関わるからだ。 ワークライフバランス改革が起きている。ようやく女性の視点が細やかに活かされはじめた。R30施術によるパートナーの睡眠時間の変化は、家事分担の見直しを促し、ワークライフバランスの調整にも一役かったかもしれない。

②佳子と太郎の場合(2035年)

 佳子(今日子が姉のように慕う幼馴染)の選択

 桜の咲き始めたうららかな春の一日だった。幼馴染の佳子が今日子のパートの定休日に兵庫県丹波市の今日子の家へやってきた。

 夫の昌男は、孫と少年野球の試合を見に出かけていて留守だった。

 今日子は佳子とは5年前の小学校同窓会以来の再会だった。

 R30の施術を受けるか否かを巡って、同窓会当時も話題になった。 今日子と佳子の友人関係は小学校の兄弟班活動での出会いが始まりだった。

 今日子が小学一年生の時の野外活動班行事では、先生に代わりお手洗いに連れて行ってくれたり、カレーに入れる野菜の扱い方を教えてくれたりと、優しく面倒をみてくれた。佳子は、六年生で5歳年上だった。

 佳子はR30施術希望締め切り年齢までに猶予がなかったはず。この日の話題はR30施術がテーマになった。

「佳子おねえちゃん、受けるのね。」

「うん。このまま一生専業主婦しかしたことないなんて、淋しいもの。違う社会も体験して死にたいとか思ってね。」

「ご主人の太郎さんは、応援してくれているの?」

 佳子の夫は、佳子より5歳年上で、すでに72歳になったらしい。「太郎さんご自身は?」

「うちのは、もう今更、若くならんでもいいや。君には随分助けてもらって60歳の定年まで働き続けてこれたから、感謝やな。ていうのよ。今度は君の活躍に応援させてもらうよ。てね。」

「実はR30施術を受けたいと思って、3年前に申請していてね、施術予定日は今年の秋なの。67歳の誕生日に決まった。それで、施術前に、今日子ちゃんには、報告しとこうと思って今回訪ねて来たの。それより、今日子ちゃんは、どうする気?」

「いまだに決めかねている。昌男君は、受けないで70歳になったからね。私だけ受ける勇気が少ない。高齢の母や父の事も気にかかるし…私が入院中に夫に何か起こったらと考えると、踏み切れない。」 

 佳子は、今日子の大好物の散らし寿司を手作りして持って来てくれていた。今日子は、佳子の好きなほうじ茶と、お吸い物と、おいしい苺デザートでお迎えし二人だけの女子会ランチを楽しんだ。

「やっぱり佳子おねえちゃんの手作り散らし寿司は最上級においしい!」と今日子は言ってほほえんだ。

 そう言えば、近所にお互いが住んでいた昔、当時から面倒見の良かった佳子には、お花見に一緒に行こうといって、よく誘われた。彼女が中学生になったころには、ふたつ返事で、お供すると、いつもお手製のおいしい散らし寿司を用意してくれていて、仲良く食べた。大人になったら、どんなお仕事をしてとか、どんな、彼氏がいいとか…日が暮れるまで楽しんだものだ。

 そんな姉のように親しくしていた佳子は地元の高校を卒業した後、進学のために大阪に引越しをして保育の専門学校に進んだ。しかし、在学中に大阪の男性に見初められた。そして卒業後すぐに、嫁に行った。

 一方、今日子はずっと丹波市在住で、23歳の時、縁があって8歳年上の地元の男性と結婚した。そんなわけで、二人は以来5年とか、10年に一回会えるか会えないかの関係になっていった。

 佳子は大阪に嫁いでから、二人の子供、男児、女児各一名づつを年子でを授かり、育児が楽になりかけたら夫の父母の介護をしたりして、気がつけば専業主婦のまま50の半ばになった。この先、どうしようかと10年昔に今日子は聞いたものだった。

 2040年秋 佳子の施術から5年が経過していた。

 佳子はすっかり若返り、就職先は、大阪のアパレル会社に内定した。来年春から、新卒の採用者と同時に入社する予定である。そのアパレル会社はワーキングウエアに力を注いでいた。ホームワーキングにも、動きやすさや、おしゃれ心、手ごろな価格帯、週に欲しい着替え枚数など、主婦目線のアイテム提案や、リアルな主婦のホームワーキング動線等の情報がほしかったということで、彼女を来春新卒者と一緒に採用し、ホームワーキングウエアの企画サブリーダーに抜擢しようと考えていた。同部門のリーダーは30歳になったばかりの翔太が担当だ。

 2041年春 佳子の就職祝い

 佳子が今年4月から就職と聞いていた今日子は、まだ、R30施術後の佳子に会っていなかった。年賀状やら、電話で、施術後の様子を少しは聞いてはいたけれど、施術後の佳子に実際会ってみたかった。

「3月になったら、大阪に訪ねていくね。若返りと、就職の前祝いをさせてね。」という約束をした。

 当日は、大阪駅中央口でお昼前に待ち合わせをした。

「ピンクのスプリングコートを羽織って行くから。」と佳子が事前に電話をくれた。待ち合わせ場所に近づくと、ピンクのスプリングコートを着た佳子が、小走りに迎えにきてくれた。そのステップが軽やかで、想像以上に若くなったと思った。パンプスはキャメルの中ヒールだった。

「佳子お姉ちゃん、ご無沙汰。うん?お姉ちゃんて呼んだら、周りが不思議がるわね。私が、姉に見えるよね。ひょっとしたら、お姉ちゃんの親かと思われているかも。」

 今日子は膝が痛んでパンプスは苦手になっていた。といってローヒール過ぎても長時間立つとつらくなる。そんなわけで、紐の黒革靴を履いて来ていた。

「今日子ちゃんは、そこまで老けてないよ。今日子ちゃん近くのレストランで、ランチバイキングやっているから、行こう。」

「うん。バイキング嬉しい。今日子におごらせてね。」

「今日子ちゃん感謝。お言葉に甘えます。就職して、給料もらったら、今度は今日子ちゃんに美味しいものご馳走するからね。この歳になって、就職してお給料もらえる生活が始められるなんて、ほんとに夢みたい。不安もいっぱいあるけど、楽しまなきゃね。」

 レストランに着いて、お互いに、モリモリ食べた。身近に見る佳子の肌は透き通るような張りがあり、ピーチカラーのルージュも馴染んできれいだなと今日子は見とれた。

 その後はショッピング。電車通勤に適した靴やら、

「アパレル会社の新入社員は、どんな服着て通勤するといいかな?」とか相談しながら色々見て回った。

「佳子お姉ちゃん、この服よく似合うよ。着まわしできそうで春らしいショート丈のカーキ色ノーカラージャケットは若返ってスレンダーになった佳子にピッタリはまっていた。

「佳子お姉ちゃん若返ってきれいでうらやましいよ。ご主人の太郎さんも惚れ直すよね。お姉ちゃんご主人はお変わりない?」

「うんR30施術の後も、私を支えようと、慣れないけれど家事も協力してくれるし、助かっているわ。不器用だけど優しい人よ。夫に感謝して、社会人がんばります。今日はお祝いありがとう。社会人デビュー本当は不安なの。相談に乗ってほしい事が出てきたら、今日子ちゃんよろしくね。そのためにも、スマートホーンもなんとか覚えなきゃ。と思っているの。」

 それから2ヶ月後、今日子宛に、「スマホデビューいたしました。」

という佳子からのメールが届き、新入社員歓迎会の様子です。と書いた会社仲間との写真がラインでも送られてきた。その笑顔にかつてのほうれい線はなく本当に30代に見えた。

「いいなー。」

と今日子は思い、自分も施術すれば見違えるほど若々しい体になるかな? この先やりたい仕事はある? カフェ経営につながるような仕事を見つける。

 しかし夫の言う人体実験の途中と言う意見も気にかかる「現時点の成功例を見ているけれど、どんなリスクがこの先発生するかも未知だ。」という新聞記事を思い出す。

 入院中に高齢の母や父が亡くなる可能性もある。夫だって、70過ぎて何があるか分からないし、佳子のところとは違って応援してやるとは言ってくれない。

「私は正社員の仕事もパートの仕事も子育ても経験させてもらったし、欲張りすぎているのかな?」

 しかし、佳子の綺麗でしなやかな身のこなしと若返って透明感のある肌と可愛いい笑顔が何度も思い浮かぶ。

③佳子の夫 太郎の変化(2035年から)

妻への感謝

 妻佳子のR30施術以降の応援役を担う決意を表明した3年前から、人の名前が思い出せなかったり、取引していた会社あたりをドライブしていたら、うっかり伝票を置き忘れてきたと錯覚したりすることがあって、あーもうリタイヤしたんだ。と我に返った。そんなのは、加齢とともに、誰でも増えると心配しなかったといえば嘘になる。しかし、心配しないふりをしてないと、妻の佳子が安心して、R30を受けられなくなると思った。今度こそは、彼女の希望を優先して幸せにしてあげたい。余生をかけて。

 太郎はリタイヤしてから、時間に余裕ができたせいか、これまで、本当に自分の事を後回しにして、家族のために尽くしてくれた妻のことを思う時間が増えた。20歳の若かった彼女を早く妻にしたせいで、彼女は社会生活を知らなかった。自分の都合で、少し強引に結婚の日程を決め自分の父母と弟達の面倒を任せた。

 太郎自身も木工業の見習い生や後輩たちの指導係り兼班長程度の階級で、役割には合わぬ安月給だった。その上、人付き合いが不器用で、内弁慶な性格であったため、佳子にその都度、碌な感謝の言葉が言えなかった。

 佳子には家計のやりくりや義理の父母兄弟の世話も重荷だったに違いない。

 しかし、若いなりにも、世話好きな彼女は、弟たちの弁当を入れたり、父や母にもよく尽くしてくれた。

特に両親の介護が必要になった時には佳子がいなかったら、太郎は勤務先をやめていたかも知れない。要介護の申請やら、要介護認定の立会い、デーサービス施設の見学と選択などは、勤務の傍らでは、日程調整すら難しかったと思う。

結婚3年目に男児、5年目に女児をそれぞれ一人ずつ授かった。子供達の健全な成長も佳子のおかげだった。

 どちらも、とっくに成人し、今はそれぞれの家庭をもっている。長男のところにも女児、男児がひとりずつ生まれ、長女豊美のところにも男児二人が生まれた。長男は、自分の子供たちが幼い頃はよく連れて我が家に遊びに来た。太郎にとっては孫たちが小学校に上がれば、ランドセルやら学習机を贈ってやるのが太郎の幸せだった。特に長男のところは子供たちをつれて一家でやってくることも多かった。春休みや5月の連休には数日連泊でやってきた。夏休みともなると、孫たち二人をひと月以上預かった年もあった。太郎は週末休みになれば、プールだの登山だのと孫二人を佳子とともによく連れて出かけた。時には嫁いだ豊美一家も夏休みには加わり預かる孫は4人にも増えたりもした。その頃は太郎の弟の二郎と三郎はすでに独立していたが、太郎の高齢の父母は健在で同居していたから、お盆や正月ともなると、太郎の兄弟一家もやってきて大集合になった。

孫たちは大はしぎで遊んだが、佳子はくたくたになっていた。大忙しで大変な目にあったとぼやきながらも、懐かしい思い出だねと佳子は近年言ってくれる。

佳子は保育士の専門学校を卒業しただけあって、注意すべき事柄も踏まえていて、野外での遊びにも様々な準備や工夫をしてくれた。牛乳の紙パックを使ったカートンボックスホットドッグは子供や孫たちをうならせるほど美味かった。その頃は佳子の両親もまだ健在で、ひ孫の成長を喜んでもら目的もかねてドライブと登山を楽しんだ。兵庫県丹波市の山は丘のような低山が多い。戦後に植林されたという杉、檜山が多い中遊歩道が整備された里山もあった。里山や観光用に少し整備された山の裾野には桜やつつじ、紅葉、石楠花などもある。

春は桜の薄いピンクに染まる。佳子の実家の裏山で4月末にはタケノコ、5月にはわらびやぜんまいなどを採る。丹波は盆地で周囲の山々の裾野は春から夏にかけて桜の薄いピンクから藤の紫とか霧島さつきの白、朱、つつじのピンクやオレンジ、白に彩られる。

また約20年前に丹波市山南町では恐竜化石が発見され、その周辺が公園整備されて訪れる人も増えている。初夏には川辺に源氏蛍、竹林に姫蛍も飛び交う。

太郎の家族は夏は竹を伐って、そうめん流しを楽しんだ事もあった。秋はキノコ狩り、灰色にうっすら青色が混ざったようなしめじや、しろぼう、いくち、まったけを採った。もちろん紅葉も楽しめる。

太郎がアルバムをめくると子供や孫たちの生きいきした笑顔があった。50年から10年昔だ。太郎も佳子も随分若い。

子供が成長した今、長男一家はほとんど顔を出さなくなったが、家族写真入りの年賀状だけの挨拶が毎年更新され、孫ふたりの成長ぶりは、そのはがきで確認できていた。

 一方、長女の豊美はたまに、帰省して、自分の子供達の成長ぶりを語りながら、食事を共にする。豊美の子供は男の子二人で高校1年生と3年生になった。豊美の長男も来年春から大学生である。進路を迷っているらしい。

豊美は佳子に似て世話好きだが、子供たちが中学生になった頃から会話は急に減ってきて寂しいらしい。話相手になる女の子がいればなと言う。

佳子の手料理をほめて、流行のホームウエア等の話をして、あとは家庭菜園の野菜をお土産に持ち帰るというパターンが通例だ。

一方、佳子は豊美からホームウエアの話を聞くと、エプロンは勿論、簡単なチュニックなどのソーイングも趣味にしていて。豊美とお揃いのウエアを手作りしたりもする。本当に器用な妻である。

 さて、佳子の施術が明日にせまった日にも、豊美はやってきて、入院準備を手伝ってくれた。太郎は自動運転で、佳子の入院先に行けるよう目的地の設定も豊美の説明を受けながら、入力完了。これで、すべて良し!

一月ほど前から 蜩の泣き声がする。夏から秋へ移り行く気配だ。太郎が煙草を吸おうと夕方の庭に出てみると涼しくて、気持ちよかった。太郎は定年後に自ら健康を気づかい減煙していった。現在は1日1本だけと決めた煙草である。裏にはには、自生の烏瓜が、夕刻から純白のレース編み模様の花を咲かせていた。数年前に野鳥が種を落として行ったのか、最初にその可憐な花を発見したのは佳子だった。「おとうさん、裏庭にレース編みのような白い花が咲いているよ。見に出ておいでよ。」

呼び出されて、出てみると、月明かりに照らされてその花は純白のレース編みのモチーフのようだった。佳子の編んだ灰皿置きみたいだと笑ったのが昨日のように懐かしい。あと何年見ることができるだろう。とふと思う。佳子は毎年、この烏瓜の花の開花を待ち望んでいる。そして毎年春に発芽して葉と蔓が延び始めると、烏瓜の蔓のために簡単な支柱を立ててやった。佳子は初秋になると「咲き始めたよ烏瓜。きれいだよ。おとうさん出ておいでよ。」といち早く見つけては、太郎を誘った。太郎は誘われて佳子と二人月明かりの下で静かに咲くレース編みの花を毎年鑑賞してきた。

佳子が施術入院する前日の夕方からは豊美と佳子、太郎の3人で観賞会がはじまった。豊美がお土産に持ってきてくれた水羊羹を冷たいお茶と共に親子3人で食べた。水羊羹は佳子の好物だ。

「例年ならば、今年の秋は丹波に帰省して、沢山きのこ狩りするから一緒に行こう。とか、お母さんにせがまれる季節やね。」「お父さん、寂しいしいんと違う?」「なにかあったら、ご遠慮なくね。お父さん。」「お母さん、明日は新しい人生再出発の日やね。応援してるよ。では。あまり遅くなると明日が大変になるから失礼するね。」と娘の豊美が言った。

「豊美、今日は準備手伝ってくれてありがとう。お父さんの事、たまに見に来てあげてね。」と妻の佳子が返した。

 娘の豊美が帰ったあと、残された二人は、明日からのことと、これまでの思い出で胸がいっぱいになって、それからは寡黙になった。

 施術は予定通り進み、経過も良好だった。施術から一週間経過。佳子はほとんど、食事と排泄以外の時間は眠っていた。

 太郎は、自動運転のマイカーで、片道2時間かけて京都の妻の入院先に毎日通っていた。施術前のような日常的な妻の微笑む顔に会いたくて。

 しかし、タイミングはなかなか合わず、寝顔にだけ会いに来ている毎日だった。

 やがて一月、二月くれて、何度かは目覚めている妻に会えた。佳子が「少ししわが減ったでしょ。」と言うので、「よかったね。」と太郎は返事したが、一人暮らしの寂しさが身にしみてきていた。あと10ヶ月もこんな別居生活が続くのかと思うと、帰路の車の中では、涙が込み上げてきたりもする。自動運転でなければ、運転を誤ってしまうほどに切なくもなる。

 そんな時は、新婚当時に聞いたいくつかの曲のMDを流してみる。

 トワエモアの風を一緒に口ずさんだ日々を思い出す。他には郷ひろみの「よろしく哀愁」「あえない時間が愛育てるのさ~ 目をつぶれば君がいる~」

 時々、妻の好きな和生菓子を買ってきて、病室の小さな冷蔵庫に入れてやる。タイミングよく妻が起きてくれば、病院の中庭のベンチに誘い二人肩を並べて食べた。そんな日は妻の笑顔に会えて、ちょっとほっとする。中庭に白とピンクのコスモスが咲いていて、和ませてくれる。近くにあるのか木犀の香りが漂ったりもする。

夕方自宅に戻ると、しばらくして豊美がやって来た。夕べには肌寒い日も訪れはじめていた。

「お父さん、ちょっと温かいもの食べたいでしょ。」と寄せ鍋の材料を持ってきてくれていて、親子で二人鍋を楽しんだ。その優しい気遣いに涙がこぼれる。

やがて秋はもっと深まり紅葉の季節を迎えた。太郎は、今週は丹波の紅葉の写真を撮って妻の病室に飾ってやろうと思った。

娘の豊美は、それからも時折、佳子の病院やら、一人住まいの太郎の家にもやってきてくれた。佳子に似て優しい世話好きの娘に育ってくれたことに太郎は感謝の気持ちでいっぱいになった。

長男の訪問

やがて年も暮れ、正月を迎えた。長男一家も、佳子の入院先に一度見舞いに訪れてくれていた。

そして、佳子に促されたといって、後日、太郎の家にも訪問してくれた。久々に逞しくなった長男の靖男に出会った。

 現在、山林組合の作業員育成の仕事をしているらしい。昔丹波の里山で遊んだ経験から、山に携わる仕事に就きたくなったと聞いて」30年になる。太郎は定年まで木工の仕事をしていたから、木にかかわる仕事を選んでくれた事は嬉しかったが、自分が扱う木は外材が多くて、日本の林業には経済的な心配をしたものだった。しかし、近年、国内産の材木が循環型のエネルギー源として、また災害防止の視点からも整備がされた。そしてAIロボットの進化による作業内容の変化等もあり再復興しはじめている様子を靖男が話してくれた。

 その次に、靖男はR30施術を受けた母についても語った。靖男は「母さんが若くなるのは複雑な気持ちだ。俺たち子供より若返るなんて、良いことかもしれないけれど、親孝行しにくいじゃない。今は俺も忙しくて、そんなこと言えた義理じゃないけれどさ…」「かあさんは、俺らと共に歳とってくれるイメージでさあ。歳とったら俺らが支えてやりたいと思っていたけど…友達みたいに若いお母さんを想像するのは今の俺にはできないわ。見舞いに行っても、結局母さんには、何も声かけられなかった。若返りを楽しみにしている母さん本人に本音は言えなかったけれど。父さんは平気なの?」

靖男は、嫁さんに佳子の見舞いを促されて、しかたなく佳子の入院先にも行ってきたらしかった。どう言って見舞えば良いのか躊躇ってしまったようだった。

誕生日プレゼント

太郎は初春、例年の佳子を真似して、水耕栽培でヒアシンスを育てはじめていた。2月の庭には雪の合間に水仙が芽をふいていた。雪道の運転は見合していて、佳子の入院先に通う頻度は月2回程度になってしまっていた。比較的暖かい日に水耕栽培のヒアシンスを届けてやりたいと思っている。2月下旬、ヒアシンスの蕾が現れはじめて、太郎は佳子の病室に届けた。

2月は太郎の誕生月だった。太郎の誕生祝いを佳子と豊美がしてくれた。病室に着くと佳子の書いた誕生祝いのグリーティングカードに添えて手編みのセーターが置いてあった。紺色のVネックの長袖ウールで襟と手首には白いライン2本の編み込み模様が入っていてオシャレだった。また、豊美が買ってきた小さめのホールケーキにはプレートが飾ってあって「お父さんお誕生日おめでとう37歳。」と書いてあった。(太郎73歳春)そして佳子も言った。「お誕生日おめでとう。ねえ気持ちは37歳になったつもりでいてね。私も4年後はもっと若返って37歳って感じかも。セーターは私のもペアでえんじ色に白ラインのを編もうと思っているの。」「それからヒアシンスのお花をありがとう。こんな素敵なお見舞いを思いついてくれるだなんて見直しちゃった。うふふ。」佳子の笑顔が可愛かった。前回来たときより、随分若返って見える。40代半ばと言ってもいい。睡眠時間も少し減ってきているようだった。

「編み物はこのペースなら無理はないのよ。」と佳子は子供のように笑った。成長ホルモン剤の投与なども経過観察しながら、受けているらしかったから無理はするなよとと言って太郎は帰宅した。

佳子が編んでくれたセーターを着て過ごすうち、やがて汗ばむ初夏がやってきた。

朝顔の種をまこう。佳子が退院するころまで楽しめる。やがて双葉が出て、本葉が出て、蔓が延び咲き始めると、咲いた朝顔におはようと言う。おはようの挨拶をする相手ができたと嬉しかった。

妻佳子の退院

 そうこうして、施術から長い一年がようやく過ぎたころ、妻の退院する日となった。蜩がまた鳴きはじめ、日を追う毎に秋らしくなってきている。

 妻の睡眠時間は少し減っていて退院日迎えに行くと起きていた。

 そして10歳くらい若返って見えた。「退院おめでとう。」太郎はうれしかったし、安堵した。娘の豊美も来てくれた。

 しかし、これまでのように帰宅後の妻が、家事をせっせと出来るわけではない。まだ4年先まで睡眠量はもとのように戻らないようだから。

 ここからこそ、太郎は自分の踏ん張り時だと覚悟する。家事はAIの進化で簡略化していた。何とかできるだろう。そう思えた。太郎は懸命に家事をこなし、妻の味に近づけようと特に料理に力をいれた。始めのうちは、調味料も吟味した。

 しかし、冬を迎えるあたりから、認知症の傾向が出始める。妻の好きな旬の魚を見つけたと寒鰤を連日で購入してきたり、醤油を切らしとると、買に走ったのに、家には昨日買ってきた在庫があったり、逆に、トイレットペーパーを買いに行っといて忘れたまま帰宅したり。しかしそれは、まだ、序の口で、傍目には健康そうだったし、「奥さん孝行感心だね」と励ます知人には、ひきつった笑顔で応じている。「誰だった?と…」思いながらも… 

太郎73歳冬(2036年冬)~

 少しずつ佳子の睡眠時間が減ってきて、時折、佳子の手料理が食卓に上る。それからは、佳子の睡眠時間と反比例して、佳子の手料理が増えていって、家事全般が施術前のレベルまでになった。

 太郎は、自動運転の車で時折、一人で出かけていく。

 妻の佳子は夫のこの行動について「一人のドライブも楽しいのかな?」

と思っていた。

佳子の就職活動

佳子施術後の就労義務に備えて、就職活動もはじめていた。保育士の仕事も一番に考えてみたけれど、教育現場の時代変化についていけそうにないと考えて、その分野は諦めた。そして違う分野を探した。そのうち、ハローワークの求人票で気にかかる募集を見つけた。その求人広告には、主婦の視点を活かしてください。主婦歴長い方歓迎と書いてある。まだ起業したての新しいアパレル会社だった。応募してみようと考えた。

佳子はどんどん若返り40代、いや30代で通用するかなと自身も思うほど若返っていった。そして施術から4年半をむかえようとしていた。

2041年(太郎77歳、佳子71歳)正月

「靖男から年賀状が届いているわ。もう長男の啓太はこの春から大学生だって。長女の祐美ちゃんも今年から看護士だってさ。」「わたしも、負けてられないわね。」佳子はちょっと嬉しそうに年賀はがきを見て笑った。その笑顔が随分、若く見える。R30施術から今年の秋で満5年を迎えよとしていた。太郎は一瞬、目の前にいる笑顔の人が見知っている誰なのかとぼんやり考えた。(目の前の顔は…え、豊美? 佳子?)

佳子はえんじ色のVネックのセーターの上に黄緑色の割烹着を着ていた。Vネックは太郎の紺のセーターとお揃いだった。数年前に佳子が編んだペアものだ。

 次の日、正月の挨拶に豊美がやってきた。「まあ、お母さん、私より若いわ。」「R30すごいね。」「それより、今年の春からアパレル会社就職やったね。」「新社会人になる気分はどう?」

「緊張しているわ。」「でも、取り越し苦労はやめるわね。R30の施術に応援してくれた、おとうさん(夫太郎)にありがとうと言えるようがんばります。」

「はは、さすが、お母さん。100点満点優等生の回答。年の功!」

「なんせ春からは71歳の新入社員なんでね。はは」「うちのお弁当屋さんも、R30受けたおばちゃんを採用してね。」「社長は、R30か、優れた人材確保できたら、言うことなしやわ。」て喜んでいるわ。「ちょっと鼻の下伸びているような気がするて言うたら、気のせい気のせいて笑いよった。」

「おばちゃんて呼ぶのも失礼なくらい、若くみえるよ。その奥さんも。」

「じゃあ、お母さん、無理せず、がんばってね。」 「おとうさん、お母さんが若くなってよかったね。お父さんに感謝しているってさ。じゃあね。」「あ、うん。豊美、気をつけて帰れ。」 と太郎はなんとか返したが、この時も妻と娘を混同してよくわからなくなった気がした。割烹着姿の方が佳子だと、落ち着いて考えたら、かろうじて思考の整理ができた。

 他人が見ても、佳子と豊美はよく似た姉妹に見えるのではないかと思うほど佳子は若返っている。佳子の作ったお揃いのエプロンでもふたりに着けられたら見分けがつかなくなりそうだ。佳子の声まで若返っている。

太郎の変化(2041年)初秋

 今日も蜩が鳴いている。佳子がもどらない。心配になって、自動運転の車で京都の妻の入院先を訪ねる。たしか部屋は東向きのここだったはずなのに、佳子の名札がなくて、知らない名前のプレートがかかっている。一緒にせみ時雨を聴きながら、冷たい玉露入りのお茶を飲んだ日は何時だったのか思い出せそうで思い出せなかった。

 病院の中庭では、ベンチで、寛ぐ熟年のカップルがはす向かいに見えた。

 佳子はどこに行ってしまったんだろう? その日も結局探し出せずに、自動運転の車で帰る。帰路の車中、哀愁のカサブランカの曲が流れている。

 家に着くと、娘の豊美(佳子を娘と間違えている)が、心配そうにどこにでかけていたのかと聞いたが、お母さんをさがしに病院へ行ってきたとは、言えなかった。

佳子の就職先(2041年4月~)

 佳子は、4月から、新入社員でありながら、大抜擢で、ホームワーキングウェアの開発部門サブリーダーとして、スタート時は多忙を極めた。そんな自分をサポートしてくれるチームリーダー翔太の存在は大きかった。通勤定期の購入の仕方にはじまり、パソコンファイルの名付け整理と管理方法など、翔太のおかげで、理解できた。

 翔太に礼を伸べると、「その律儀さが、今時の若者とは違うんですよ。と照れる。」その照れた横顔が、太郎の若かった頃を彷彿させるほど似ている。佳子の主婦目線は、ホームワーキングウエアの開発に大いに役立ち、売り上げを倍増させた。多忙ながら、順調な仕事ぶりで、一年目の新入りに臨時ボーナスまで支給され、一段落ついた晩秋には一週間の連休がもらえることになった。

 太郎さんに感謝やな。お祝いに温泉旅行でもプレゼントするか!

 「おとうさん、ボーナスいただいたよ。連休も…」「一緒に温泉でも行こう。」と佳子が夫を旅行に誘った。佳子は通勤用に自分で購入した水色のツーピースを着ていた。

 しかし、元気な返事が夫から返ってこない。

 最近の夫はなんだか、ぼんやりしている気がした。ここ半年、自分の新社会人生活が忙しくて、その変化を見逃していたことに、はっとする。

 佳子は子供ができてから、夫の太郎のことを、おとうさんと呼ぶことが多くなって久しかった。

 あくる日、佳子が会社から帰宅すると、元気なくぼんやりしている夫がリビングにいた。

「おとうさん、今日もドライブしてきた?」

 玉露入りのペットボトル2本と、佳子の好物の水羊羹が、京都の舞妓さんの描かれた買い物袋に入ったまま、リビングのテーブルに無造作に置かれていた。

 夫の太郎がおもむろに、佳子に向かって「お母さんを探しに行った。」「お母さんを探したけれど、病室には違うネームプレートがかかっていて…」

「え、なんて…」佳子は自分の耳を疑った。続いて夫が半泣きで言った。「豊美、お母さんはいったいどこに消えちゃったんだろう?」

「え、太郎さん…」(ああ、この人には、私が佳子だと分からない。自分の妻だとわからなくなってしまっていたのね。)(新入社員ながら、会社にも評価された事を、R30施術を応援して支えてくれた貴方に一番に喜んでほしかったけれど…)夫の車の運行履歴を確認すると、連日行き先が、京都の病院になっていた。私を探しに、京都の病院に日参してくれていたとは…「ごめん。太郎さん。ごめん。寂しい思いさせていたね。」

 佳子は娘にショックだった話をその夜電話で伝えた。

 そして娘の休みに来てもらい父親と一緒にかつて佳子がR30の施術を受けた病院を訪れてもらうことにした。

 佳子は先回りして、ちょっと地味過ぎて似合わなくなった当時の水玉模様の服装に着替えて夫と出会い一緒に帰宅した。

 その、数日後、夫の認知度を検査してもらい、アルツハイマー型の認知症がかなり進行していると知った。

 気分転換も兼ねて、頂いた休暇には温泉旅行も決行しよう!

 晩秋には、新婚当時息き抜きに二人で出かけた城之崎温泉に泊まり松葉かに御膳を楽しんだ。

太郎の最期

 それからさらに3年経過(2044年初秋)81歳で、夫が逝った。

 その日も、蜩が鳴いていた。「親父、太郎の葬儀を始めます…。」と長男の挨拶からはじまり、しっかり喪主を長男靖男が務めてくれた。

 出棺の時には靖男は号泣していた。豊美や、孫達、太郎のごく親しかった友人たちも涙ぐんで見送った。佳子は、夫に胸のうちでありがとうを繰り返していた。

 ほぼ家族葬で送った。49日の法要では、長男は寡黙だった。帰りに一言だけ、「がんばりすぎるな…母さん。」と言った。

 49日の法要が開けた晩秋に、佳子は久々に幼馴染を訪ねた。「今日子ちゃん、お香典をご丁寧にありがとう。」「お姉ちゃん、大変だったわね。」

 そして、佳子の夫の晩年の様子が語られ、次いで佳子の社会人生活デビューから今までの経緯が語られた。

 佳子の話しでは、太郎さんは、亡くなる一年ほど前からは佳子を豊美と全く間違えなかった。新婚当時を回想しているかのような日々だったらしい。「ずっと貧乏させてごめん。今年は結婚10年目だから、誕生日に、サファイヤのブレスレットと指輪を買ってあげるね。と言って。今日は何月何日?:て、毎朝尋ねるんだよ。」「ありがとう。サファイヤは誕生石だわ。」「今日は○月○日だから、もうすぐね。と返事するとね、太郎さんたら、フフ(笑い…)今日は、これで簡便してね。と私の手をとると、その手の甲にキスをしてくれるの。おもわず思い出し笑いしちゃった。なんか、R30施術を受けたのは、正解だったか、間違いだったか現時点では分からないけれど後悔はもうしないわ。」

「目の前にいる私が妻だと理解できずに、探していたと知った時はものすごくショックだった。ちょっと後悔もした。けれど、最期は、太郎さんもアルツハイマーで脳内は昔々の若かりし日に戻ってくれていたのか、再度新婚気分にしてくれた。これはR30の施術の成果で、見た目も昔の私に会えたからかも知れないじゃない。それに、彼の亡くなった後の私が、喪失感で連日泣いているよりも一日を大事にできている。日常に戻れるのが早いのもR30を受けたお陰かな。職場での働き甲斐のせいだし、この選択を応援してくれた太郎さんに毎日感謝して働き続けようと思う。このずっと先は体だってどうなるか分からないけどね。」佳子はそう言って、微笑んだ。

⑤R30施術者の恋愛(今日子と佳子の会話より)

 さらに翌年の夏、今度は就職祝いのお返しに今日子を誘うつもりで佳子が丹波の今日子を訪ねて来た。

「ねえ、今日子ちゃんリクエストのお店がある?」「…?思いつかない!佳子おねえちゃんに任せる。」

「あのね、笑わないで聞いて…会社の翔太さんて言う36歳になったかな…チームリーダーに食事に誘われて、それこそ、サファイやのペンダントを誕生日にもらっちゃった。」「リングとブレスレットは、ご主人に先をこされたからNGでしょうからって…」「私76歳よ」って言ったら、「頭では理解できているんですけど…」って頭掻いていた。「えー、やだー、翔太さん、おねえちゃんにお付き合い申し込んだの?」「この先は読めないわね。」「私だって、何度もお断りしたんだけどね、気持ちは変わらないなんて言うの。」「その時のお店が、気取らないフランス料理で雰囲気も味も良かったからどうかしら?」「いいね。是非行きたい。」「じゃいつがいい?」「来月の公休日…」

少子化の影響で、実際、この国の結婚適齢期の人口は減少している。AIとの連携で仕事は成り立つから、まず、同じ職場に人間がいないという場合も珍しくない。それに結婚適齢期という枠を勝手に設けてはいけないのかも。また異性だけが、パートナーではないという考え方も広まったしね。

「リアルな人を相手に恋愛ができないって言う男性をテレビでも紹介していたね。2次元のアイドルに恋愛するみたいな…」「そんなご時世にさ、R30施術者の見た目若く見える女性に恋愛感情もつのはノーマル。確かに理解できる。」「でも、政府は困るんじゃない。R30制度の救うべき社会課題は年金制度の立て直しだから、子作りできるカップルを祝福したい!でしょ。」「そのうち、R30施術者には目印つける義務まで加わるかもね。R30施術済みと印字した腕章つけなさい!とか」「今日子ちゃん笑えないよ。それ。」と言って佳子は真剣な目に変わった。 その真剣な目を見ていると佳子の新しい恋を心から応援したくなった。「佳子お姉ちゃん、もっともっと幸せになってね。」と今日子が言うと、「今の私は、幸せ過ぎて怖いわね。ありがとう。」と佳子は言って大阪に帰って行った。今日子は佳子お姉ちゃんが長生きできますようにと祈りながらその背中を見送った。

⑥ふみえの施術予告と不安(2036年末)

 今日子の隣家には仲良し熟年夫婦が住んでいる。そして、二人ともR30で、若返る方針らしい。すでに、夫の直は施術から6年経過し、再就職先の評判はすこぶる良い。直の発案した、果樹収穫ゲームシリーズは、遊びの域を超え、農業振興のあり方さえ変えた。

 直の幸せそうで、誇らしい姿が新聞やネットや、テレビで紹介されるたび、ご近所では、ふみえは直の妻として知られるようになった。

 そのふみえは、かつて体育教師をしていて、直と出会った。筋肉系美女で、直が一目ぼれしたと聞く。現在は直の施術後を支えるために、教師をやめ週末のみスポーツジムの受付パートをしている。

 すでに65歳になっていて、施術に備え年内でパートをやめることにしていた。来年2月、ふみえもR30の施術を受ける予定になっている。

 しかし、多忙な直が心配だ。自分の施術後の五年間、中でも最初の一年間は睡眠時間が一日平均20時間ともなる他、経過を確認しながら調整する薬剤投与の必要があり一年間の入院生活が施術を受ける条件だ。その入院中、夫の食生活が気にかかる。そして、そんな心配を他の女性がしたらと考え出すと、さらに不安が募る。私の入院中に魔がさして、他の誰かさんに誘惑されないかと。

「今日も「一緒に青春する相手を忘れないでね。」って見送ってきたわ。」「この先、不安だわ。施術後、一年後に退院して帰ってきたら、直さん消えていませんようにって。毎日祈っているの。」「お隣さんにも、留守中、お世話を掛けるかもしれません。施術の2週間前までに一時入院して適合検査みたいなのが必要らしいの。その日程次第でご挨拶できなくなったらまずいわと思って…」「また退院後も何かとお世話になる可能性もありますので、その節はよろしくお願いしますね。」とお隣のふみえさんが挨拶に来た。

 ふみえの頬は、はりが失われているが、体育の教師をしていただけあって、姿勢が良く今でも若く見える。この人がR30を受けたら、随分きれいになるだろうな。美男美女の若いカップル誕生か…いいな…と今日子は羨ましくなった。

 ふみえの心配はよそに、ふみえの入院中、直は確かにもてた。直に手作り弁当を差し出す会社の同僚、取材先の娘など多くの人に支えられた。しかし、ファン対応みたいな感覚で、特定の人に溺れることは無かった。 

 直はふみえの施術とその後の退院生活にも協力的だった。多くのファンが、彼の家事にもヒントをくれた。そのヒントが、また直の閃く仕事に結びついていく。こうなると、家事まで楽しい直の得意分野となった。

 しかし、この直の向上心とファンとの協同結果が、ふみえの居場所を奪いそうになる。直は、ふみえの手料理もおいしいと感じている。しかし、ふみえは自分の料理にコンプレックスを持ち始めたと気づいてしまう。

 掃除の手際はこうしたら楽になるよと、つい言いたくなるが、それを遠慮して妻に言えない直。正直ファンと過ごす時間の方を楽しんでいるようにも思える。

 ふみえは、施術から5年たった頃、直の家事能力にはかなわないと悩む。直は料理の手際がよい、ふみえの知らなかった料理の数々と、完成度の高さにも脱帽する。お掃除までうまい。

 ふみえは、現状のグレードでも自分を必要としてくれる居場所を求めて、介護ヘルパーの職を見つけてきた。

 直にとって、ふみえはやっぱり魅力的な妻、居てくれるだけで、ほっとできたのに、伝わらない。

 ふみえはヘルパー派遣事業所の登録スタッフとして、入浴介助や見守り、歩行介助等のお仕事を家からの直行直帰で提供する。利用者の居室掃除や料理もする。一日4時間程度、週に4日ほどの仕事である。他に、月一日程度、登録事業所に出向く。

 ふみえが行う簡易な料理等のサービスをお蔭様といって、有難がってくれる利用者さんに救われた気持ちだった。二人とも若返えれば、最高に幸せのはずだった。

 直のルックスも、感性も、家事能力も素晴らしすぎるのに、寂しくなるなんて想像もしなかった。

 二人の間で、もう一度、幸せの形を模索する人生が幕を開けた。

(2042年夏)

 今日子は、お隣のふみえさんに、最近の様子を聞いた。

「でも、まあ、お仕事見つかって、よかったですね。」

「そうね、直さん直伝のコツも受け入れて、スキルアップするわ。」

「お二人の時間も上手く作って、もう一度青春ですよね!」

「そうそう、それが一番重要課題ね。若返ったといっても、いくつまで生きられるか保証ないですからね。」

 R30を受けてすっかり若返ったふみえさん達にも悩みがあることを知った。R30による体の変化以上に、実質の一人暮らしや、施術後の家事における立場の変化が、今までの暮らしぶりを変えてしまう。 新しいステージなりのパートナーシップを創造するという課題が生まれていた。

⑦今日子の幼馴染(寛二の場合)

 寛二は今日子の幼馴染で、幼いころは姉弟のように遊んだ。寛二は今日子よりひとつ若かった。

 寛二は優しい性格だった。寛二には3歳年上の兄がいた。しかし今日子が物心ついた頃には、すでに小学校に通っていたから、日常は寛二と今日子と今日子の弟と三人で遊んだ。土曜日の午後や、日曜日には、たまに寛二の兄も一緒に遊んでくれる。

 寛二の兄寛太も優しく面倒見がよかった。兄の寛太は私たちにそれぞれの名前のひらがなを教えてくれて、きちんと書けたら大きな花丸印と100点とを書いて先生の真似をした。そんな日はまた格段に楽しかった。夏には、寛二のお家の畑で採れたきゅうりがおやつになって出てきた。塩をすりこんだだけのきゅうりが、こんなに美味しいと感じたのが懐かしく思い出される。

 そんな頃今日子は、寛二の火傷の傷には、まったく気にも留めなかった。秋には赤とんぼを追いかけたり、冬には雪だるまをこしらえたりした。楽しく平和な日常が繰りかえされ季節も巡る。春には麦の穂が黒墨みたいに化けたのを競って抜き取って、土壁に大好きだったおばちゃんの顔を書いたりもした。寛二が黒墨化けした麦の存在を教えてくれた。ひとつ幼い寛治の方が物知りだった。しかし今日子が小学生になると、次第に、寛二と遊ぶこともなくなった。

 そして、寛二が小学生になる前に、大人たちの会話を聞いた。「寛二君、入院して、整形で、手術するらしい。おしりかなんか、他の肉を移植して、顔の傷を治す…成長にあわせて皮膚移植がいる…」難しくてよく分からなかった。けれど、手術はすごい魔法のように聞こえた。

 それから数年後。今日子はある日、寛二が小学生の高学年になった頃いじめにあっている様子を、偶然見た。寛二が、同じ小学校の顔だけは知っている子供らに、からかわれていた。今日子はどうする事もできずに、遠巻きにその様子を見た。寛二はどこかに隠れて、その後、一人で家に向かって俯いて帰っていった。しかし、今日子は何ひとつ声もかけられなかった。

後日のこと。

「寛二君、今年の夏休みには、また入院するらしい。大人になるまでに、何回か手術する必要がある…」と今日子の両親たちの会話。そうなんだ。良くなるんなら、いいわと、もういじめに遭わなくなるといいなと密かに今日子は思う。

 寛二の顔を真近で見る事ができた幼かった頃、優しくあどけない横顔の反対側にそういえばあった火傷の痕は、その後どうなったのかと思う。今はもう近くで見ることはないけど、その傷痕のせいで、からかわれて帰った彼の辛さを思うと切なかった。

 寛二の火傷は、まだ彼が赤ん坊で、彼のお母さんが目を離したすきの事故だったらしい。ここは今日子のかってな想像だが、自分のせいで、息子をかわいそうな目にあわしたという負い目はきっとあったと思う。息子が、いじめにあって帰宅したら、どう言って、慰めただろう?

 寛二もまた、いじめっ子とどう対峙し、帰宅後は、そのことを家で話題にできただろうか?

 今日子は時々実家に帰省する。年老いた母から、寛二のお母さんが、認知症で、物忘れが進行していると聞く。寛二は、就職していて、独身らしい。今日子より、一つ下だから、そろそろR30年齢だ。施術の選択をどうするだろう?

 寛二はどこかに勤めながら認知症の母親と同居して、その面倒を見ているらしい。

寛二の選択(2035年初夏)

 寛二は61歳になった。長年勤めた会社を昨年定年退職した。そして近い将来、R30を受けようとしていた。退職直後、R30施術を希望申請した。

 今は認知症がかなり進行した母が、まだ、しっかりしていた頃、寛二がいまだ独身でいるのは、自分が防げなかった幼い頃の火傷の痕のせいだと思っていて、自分を責めた。

 寛二は幼かった頃、何度も繰り返す入院生活が嫌だった。意地悪な同級生達から、からかわれる事からはその間だけ解放されるけれど、人並みに夏休みを謳歌して、海水浴やら、野山を駈けずりまわったりがしたかった。けれど、入院のために制限されたことが悲しかった。

 寛二は、時折、母の後悔と、自責の嘆きに、つい、その通り母のせいだといってやりたい衝動に駆られることもあった。しかし、もはや認知症が進行した母は、次第にどこまで、覚えているのか分からなくなってきている。

 自分は、もう時間を無駄にする後悔をしたくない。そう寛二は考えた。

 夏休みを謳歌できるわけではないが、もう一度青春をやり直そう。自分の顔の傷痕を悩んで生きた事やら、母の懺悔やらから、解放されたかった。

 振り返ると、独身を選んで生きてきた訳ではない。それなりに、好意を持つ女性もいたし、勇気をだして、交際を申し込むこともあった。しかし、相手の女性が、「勇気がない…」と断ってきて、寛二の勇気も萎んでいった。

 障がいを持って生まれた(五体不満足の乙武さんやら、事故で、障がいをもった星野富広さんに学んで、勇気と運に恵まれれば、自分も結婚して家庭が持てると、何度も思っては萎んだ。

寛二の施術

 寛二は、R30施術に希望を持った。母の認知症は気にかかるが、AIやら、コンビにやら、デーサービス利用でなんとかなるだろう。母のことはケアマネージャーさんと兄夫婦にも頼んでおけばいい。

 そして、施術予定のせまったある日、いつもの最寄のコンビにで、母や自分のランチ弁当を購入した。すると元気の良い新人らしい店員がレジにいて、その笑顔につい、ありがとうと言って微笑んだ。「ありがとうございます。」「新人の田中です。」と元気な自己紹介を含む挨拶が返ってきた。30歳半ばくらいに見える女性だった。

 出会いから一ヶ月、寛二はほぼ毎日、田中と名乗った彼女の勤めるコンビニ店に出かけ、顔なじみになった。

 そして、寛二が明日から、入院という日にもそのコンビ二で、当座の日用品を買い揃えた。レジを打ち終わり、買い物袋に商品を詰め終わると、「またお越しください。」と田中が笑顔で言って見送った。寛二は、一瞬、ためらったが、「明日から、入院するから、しばらくは、来店できない。」と言った。

 すると「どこか悪いのか?」と田中が心配そうに尋ねてきた。

 そこで、つい、「R30って知っていますか? 若返ってやり直そうと思って…」と言った。「え、R30! 私R30受けました。頑張ってください!成功を祈っていますね!」と飛び切りの笑顔が、自分に向けられて、照れた。いつもはシャイな寛二が、この時は、自分でも驚くほど、シャキッと、向き直った。そして彼女の目をみて、「ありがとう。これからの人生悔いなく生きます!」と宣言して家に戻った。

 寛二にとって久々の入院生活が始まった。

 一週間ほどの適応検査も順次済んで、いよいよR30施術日を迎えた。病院の手術室はこれまでにも様々な思いがめぐらされてきた特殊な空間だった。幼い頃は、白い天井が揺れながら迫って来て押しつぶされそうな錯覚に、怖い思いもした。親の気持ちを優先に受けた手術の事も思い出す。今回は自分の意思のみで決断した。そう思うと、手術室の空気が清清しく感じられた。手術前にシャワー浴を済ませ、簡易な施術用の服に着替えを促された時には、これからの人生、何があっても自分の責任で楽しもうと意気込んでいる事を再確認していた。

 寛二の施術と入院生活はほぼ順調に進んだ。入院中に、何度か少年時代の夢を見て、悔し涙がこぼれた。そして一年がくれた。退院する日には、兄夫婦が病院まで迎えに来てくれた。母はケアマネージャーが紹介してくれたシルバーステイを利用しているらしい。

 兄夫婦に自宅まで送ってもらう。そして、兄夫婦が、この一年間の母との出来事を一通り語り、寛二の苦労が分かったとねぎらってもくれた。

 兄夫婦が帰って、家に一人になると、コンビニの田中は元気かなと気になった。一眠りしたら、会いに行こう。夕飯も調達したい。

 長い昼寝から覚めて、最寄りのコンビ二に行くと、田中の姿は見えなかった。から揚げ弁当とペットボトルのお茶と、缶ビールを買って帰り、一人で食べた。

 母が不在で、気楽だが、家が広すぎると感じる。R30施術者に課せられた若返り後の就労義務と、施術後の睡眠量の経過(施術後は睡眠時間が大幅に増え5年かけてやっと施術前の睡眠量で足りるようになる)を考えた兄夫婦が、これからは、母をサポートしてくれると言ったから、この先一人だ。

 施術から満1年の今は、若返りの途中らしく、50代そこそこに見えるかなと言う程度。右の頬の火傷の整形痕も、若干薄くなったが、消えてはいない。

 しかし、火傷痕が残ったままでも、もうかまわないと思った。施術の効果か、長年感じてきた、引きつるような頬の違和感が半減して、食べ物は旨く感じる。それだけでも、嬉しかったし、もう後悔して得なことはないと思う。

 あくる朝、寛二はまた最寄りのコンビニヘ行った。

そこには、品出し中の田中の姿があった。居た!一年ぶりだ。「成功を祈っています。」と言ってくれた彼女は、自分を覚えてくれているだろうか?一瞬寂しい不安がよぎる。

 サンドイッチと、ボトルコーヒーを籠に入れて、ビールのつまみを物色していると、田中が、近寄ってきた。そして「おかえりなさい。」と耳元でささやいた。寛二の体にスイッチが入る。ちょっと照れて、「ありがとう…」覚えてくれていた。

 つまみも、選んで、レジに向かうと、彼女がレジを担当してくれた。

「今度の休みは予定ありますか?」と寛二が尋ねる。「いいえ。」と田中は答えた。「休みはいつ?」と寛二。そして、来週金曜日、寛二の退院祝いを兼ねて自宅に来てくれる約束ができた。

 約束の金曜日、彼女は、寛二の大好物のから揚げを寛二の家で手作りしてくれて、そのから揚げを二人でほおばりながら互いの生い立ちを初めて紹介しあった。

 彼女は、尚美という名前で、67歳、ずっと寛二と同じ丹波市内に住んでいた。6年前にR30を受けた。R30を受けて30半ばに見える。長年難病の父を介護していて、その父が他界して、自由になった時、気がつけば55歳の独身だった。それから、何を目標に生きていけばよいか途方にくれて、時間を無駄にした。 けれど、60歳になった年にR30法を知って、直ぐに、施術応募した。そして、若返り、寛二の利用するコンビニに新人として勤務しはじめたそうだ。

 寛二の仕草が、尚美の父の仕草にちょっと似ていたのもあって、自己紹介つきの挨拶をしてしまった。それから、寛二のことが気にかかりだした。寛二のR30施術宣言の凛々しい真剣な目が、一年間ずっと思い浮かんだと言ってくれた。一年後の来店では、頬の火傷痕で、間違いなく気がついたそうだ。よく、から揚げ弁当を買っていったのも覚えていて、好物なんだなと気がついていた。

 それで、尚美は、寛二の家のキッチンで、揚げたてを作ったら喜んでくれるだろうと思ったらしい。

 家のキッチンで、母以外の女性が、自分の好物を作ってくれている。香ばしいから揚げの美味そうな匂いがしてきたとき、寛二は嬉しい感動が止まらなくなっていた。

 尚美もまた、誰かのために作る料理は久々の事で楽しかった。

「わたし、お父さんが亡くなってから、ずっと孤食だったから、虚しくてね。誰かと、一緒にお食事したかったの。」「から揚げ、また作りに来て良いかな?」と尚美が尋ねる。

 寛二は照れながら「ありがとう。いつでも歓迎だよ。眠っていても飛び起きるよ。」と微笑んだ。

 あくる日から、尚美はコンビニの勤務が終わると、毎日やってきた。から揚げのほかにも、尚美の手作りメニューが増えていき、寛二がコンビニに出かけて買い物する回数がグーンと減った。

 尚美が寛二の家に日参するようになって3ヶ月ほど経った夕方。コンビニ近くの公園のコスモスがきれいだよと尚美が誘い出した。

 そして「寛二が来ないと店の売り上げがダウンしちゃうよ。」と言って笑った。「それから来週金曜日は私の68歳の誕生日です。」「誕生日ケーキの予約よろしく。」「もしよかったら、婚約指輪も手配できますよ。」と言った。寛二が照れながら「OK」と言って、尚美を抱き寄せた。

「僕の一日の平均睡眠時間が10時間くらいになったら、結婚しよう。」「新婚旅行は、できたら夏がいい。」「二人一緒に夏休みを謳歌しよう! 山がいい?海がいい?」

「寛二と一緒ならどこでも楽しいよ!」 夏から秋に変わり始めた夕方の空にうろこ様の雲が輝いてきれいだった。夕焼け空を二人で見上げていた。二人はそれぞれ、R30施術に賭けてよかったと心から思った。

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